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好きこそ物の上手なれ

荒川 葉子 (Yoko "Nobori" Arakawa)さん (中国広東省恵州 在住)
 
大阪生まれ。 地元の大学にて政経学部政経学科へ入学し、経営情報学部経営情報学科に編入。 
大学の交換留学生としてアメリカ・NY州エルマイラ大学へ留学したのをきっかけに、日本の大学を休学し、そのまま、エルマイラ大学を卒業。帰国後、日本の大学へ復学し、NPO法人・日本リアリティセラピー協会、日本選択理論心理学会にも所属。 
同大学院、経営情報学研究科にて「日本の経営倫理について」学び、卒業。
東京で保育園の保育スタッフ、アメリカ・フロリダ州Lakeland、Blake Academy(小中学校)にてインターンシップ、東京都大田区教育委員会管轄の不登校生徒のための学校にて適応指導教室勤務、NPO法人・女性人権センターステップにて電話相談カウンセラーなどを経て2008年12月に結婚。 現在は、ご主人の仕事上、中国・広東省恵州にて生活をしている。

・英語と私 ~英語学習から英語教育へ~

実は、タイトルにもあるように、私はただ英語が好きなだけでした。この好きな気持ちは、あこがれでもあり、夢でもありました。 英語を話す人が輝いて見え、その姿が、私の理想像となっていたのでした。

私の小学校は当時では珍しく、4年生から英語の授業がありました。 その頃の授業は、先生の言うことを聞いたり、発音してみたりと、あまり楽しいものではなかったのですが、「好き」という気持ちが強かったので、英語に関わること自体が楽みでした。 
小学校での英語授業の始まりと同時期に、ECCにも通い始めました。 ECCは会話重視だったのですが、英単語のつづりが全く読めないので、聞いたものを必死に真似するだけでした。 単語の読み方を丁寧に、細かく教えるということを全くしてくれなかったので、先生が教材のどこを読んでいたのかすら分からないときもありました。 しかし、ここでも、英語を学べるというワクワク感が学習を継続させてくれたのでした。 今思い返せば、全く会話の意味は分かっていなかったのですが。

中学校の授業では読み書き重視だったので、ひたすらテストのために暗記する勉強でした。 でも、英語を話したいという思いの強かった私は、テープやCDを通して、発音にも力を入れていました。 英語に関する歌や、外国の小咄、国際文化など、いろいろな視点から英語に携わる物・事・人に興味を広げていったのですが、全くと言って良いほど、外国人と関わるチャンスはありませんでした。 

14歳の春休み、大阪市とオーストラリア・メルボルン市の姉妹都市交流の派遣団の一員として2週間のホームステイ旅行に行きました。 私の初めての海外旅行です。 ここでの経験が私の英語への想いを更に強くしました。
すごく楽しい経験、素晴らしい出会い、見るもの聞くもの全てが初めてで、感動しました。 それと同時に、苦痛な出来事もありました。 英語が「しゃべれない」のです。 それまで、英単語の暗記をはじめ、英語のテストにはかなり力を入れてきたのですが、いざという時に、まったく聞き取れず、しゃべれませんでした。 
そんな私に対しても、ホストファミリーは、いつも笑顔で優しく、親切に接してくれました。 その時に思ったのです。 もっといろんな自分の気持ちを伝えたいと。 この経験が、その後の英語学習のモチベーションとなっていったのは言うまでもありません。 同時に気付いたことは、英語は人と人をつなぐコミュニケーションのツールでなければならないということでした。

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高校では国際文化コースに進み、たくさんの英語授業を受けました。 しかし、ほとんどの授業は、受験を目指すためのテクニックや、暗記重視、テスト重視でした。 会話を楽しめる機会は週に1回、オーラルコミュニケーションという授業のみでした。 しかし、この授業でさえも、45人のクラスに1人の外国人講師だったので、楽しめるわけがありません。 私も他聞にもれず、大学には行きたかったので、受験英語だと割り切って英語の勉強をしていました。 しかし一方で、受験だけに縛られたくないという思いもあり、外部で開催される国際交流会などにもよく参加していました。 交流会を通じて、英語圏の友人を作ったり、英語を話すチャンスを作ったり、交流会後もコンタクトを取って遊びに出掛けたり、その友達が帰国した後でもペンパルとして交流を続けたりしていました。 この頃からでしょうか。話せる、聞けるという感覚を少しつかみ始めました。 
高校生の夏に、大阪府と中国・上海市の姉妹都市交流団に選ばれたことがあります。 2週間で4都市を訪問しながら、現地の中高生たちと、文化交流を楽しみました。この時に驚いたのは、中国での交流にもかかわらず、共通言語は「英語」だったのです。 当時、英語を話せる生徒はほとんどいなかった日本側に対して、中国の生徒たちは、おどおどせず、間違っていても一生懸命伝えよう、話そうという気持ちから、英語でしっかりと話しかけてきました。同年代の中国人達が英語を使って積極的に交流をはかっていた光景は、今でも鮮明に記憶に残っていて、当時はかなりのショックを受けました。 

大学生となり、同じ大学内で転部した夏、交換留学生として、アメリカ・NY州のエルマイラ大学へ留学しました。 もっとアメリカで勉強したい。 そういう想いが日増しに強くなり、日本の大学の単位を移行して、残りを全てアメリカで取ることにしました。留学1年目は、「自分は英語だけの環境にいるのだから、やるっきゃない!」という思いで、ただ突っ走りました。 そして、2年目突入の頃に、なんか英語が聞き取れる、分かるって感じが具体的につかめるようになって、話すことに関しては、「話して間違っても、訂正すれば良い」と、開き直ることができるようになりました。
留学2年目にして、やっと英語を話すことに対して「自信」がついてきました。それまでは、積極的に前に出ては英語を使っていたのですが、聞き取りも含め て、なかなか自信に結びつかなかったのです。 いろいろな経験も積んできていたのに、いざとなると、時々、英語が怖くなることがありました。 それでも、 自分で選んで決めた留学に、「諦める」という文字はありませんでした。 そして、2002年6月には、とうとうエルマイラ大学を卒業することができたのです。

帰国後は、国際交流事業のボランティア通訳をしたり、災害時の緊急通訳として登録をしたり、教会に来たミッショナリーの通訳をしたり、ホームステイを受け入れたりと、「英会話力」を使って、あちこちを奔走しました。 また、大阪・千里インターナショナルスクールのスペシャルプログラム事業であるサタデースクールとサマープログラム(Just For Kids)で、アシスタントスタッフとしてアルバイトをしました。 この時から、英語を学ぶことだけでなく、教えることや教育自体に強い関心を持つようになってきたのです。
それ以降は、英語を教えることや教育に力を入れ始めました。 東京の保育園にて保育スタッフとして勤務したり、NPO教育支援協会管轄の小学校英語指導者資格(J-Shine)を取得したりしました。 また、東京都大田区教育委員会管轄の不登校生徒のための学校で適応指導を行ったりもしました。

今は、中国・広東省の恵州にいて、英語の通じない生活をしています。 しかし、この地でも英語の大切さや重要さは日々感じています。 いつか日本に帰ったら、英語教育に携わって行きたい。 それが、私の夢であり、これからの人生です。 

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~English Gives Me Tons Of Chance!~

・英語を学ぶことは、どうして必要なのでしょうか?

国境を越えて、民族や人種という壁を越えて、お互いを知る上での手段として。
それが私の考える英語学習の必要性です。現在、世界中で約15億人の人が英語を使って意志疎通が出来ると言われています。これは地球人口の約4分の1にあたる人数です。
私は今、中国広東省恵州に住んでいるのですが、ここの町では4つの言語、北京語、広東語、客家語、恵州語と、似てもにつかない、違った言語が飛び交っています。そして、政府改革によって、公用語は北京語と定められています。しかし、13億人が住むこの国では、地方、地域、または過去の教育過程に置いて北京語を学んだことがない人も居るので、全ての中国人が北京語を話せるわけではありません。恵州は他の主要都市と比べ、大変小さい町です。
※恵州市:1988年に制定、日本の岐阜県くらいの広さに約376万人が住んでいる。

いくつかの日系企業や外資系企業があり、ビジネスの町としては盛んですが、4つの言語が飛び交い、教育水準も皆、てんでばらばらな人々が集まる町なので全く英語は通じません。そして広東省は、特に地方からの出稼ぎ労働者が多いため、中国北部、西部、東部地方からの出身者が多いです。

もし、町で何かトラブル(事故や病気etc)が起きて、近くの人に救いを求めてもhelpという単語でさえ99%分かってもらえないのです。そんな町でも、緊急事態の際、対応してくれる電話番号があります!これは異国から来た人々にとっては嬉しい電話番号です。―しかし、その対応言語は"英語のみ"なのです―町に住む人々の90%以上が英語を話せない町でありながらも、英語対応の電話番号を設けているということは凄いことですよね。ここで、もし英語が分からない場合、きっと多くの人は自分の言語を話せる相手を捜すために四苦八苦するでしょう。
英語を学ぶことが必要という理由のひとつとして、中国恵州に限らず、多くの国が英語対応の緊急策オフィス・電話番号を設けている点があげられます。海外旅行で利用する際の日本語対応の電話番号だけでは、自分の身が危険にさらされているとき、助かる確率が小さくなりますが、英語という強みを持つことで、身の安全性をより一層高く早く解決に導けるでしょう。

・英語を学んだらどんな楽しみがあり、どんな広がりがあるのでしょうか?

極端に言えば、少なくとも70ヶ国の人々と交流ができるようになります!これは英語を公用語としている国が約70ヶ国あるということだけなので、英語が公用語でなくても、英語を使える人を見つければ、70ヶ国以上の人と交流できます。オリンピックや世界サミットなどが良い例でしょう。
楽しみとしては、自分自身の趣味や興味について共有することが出来ます。例えば、私はディズニーランドが大好きです。今ではディズニーランドはアメリカを始め、フランス、東京、香港にあります。そして、2013年には上海ディズニーが完成します。世界中で愛されているミッキー。ディズニーの物語やキャラクター達は世界共通のエンターテイナーと言っても良いでしょう。私はディズニーランドに行きたいがためにアメリカのフロリダに住む友達を作り、香港に住む友達を作り、東京に友達が来た際には一緒に東京ディズニーへ行って、ディズニーの魅力を楽しみ、英語という言語を通じて、ディズニー映画についても語り合うことが出来ました。好きなことで友達も広がり、外国旅行へ行ける楽しみとなるのです♪

・英語を話せて・・・
 

私はいつの頃からか教育について、とても興味を持ち始めました。しかし、年齢とお金の問題から、教員免許を取るための取り組みや、大学へ行き直すということが出来なかったのですが、幸い英語が話せるという強みと、アメリカの小学校の校長先生と友達だったおかげで、日本文化紹介の教員としてインターンシップをするチャンスを得ました。就労VISAなどは無かったため、無報酬でのインターンシップでしたが、2ヶ月間、アメリカの教育について肌で体験することが出来ました。ここでは英語で「よさこい踊り」を教えたり、日本の小学生たちのこと、教育について、折り紙授業などをしました。日本では教員免許がなければ、教壇に立つことさえ出来ないのですが、アメリカでの自由な受け入れ体制とボランティア精神で、「先生」として生徒と向き合い、英語を通して日本の良さを伝えることが出来ました。この経験から、「学ぶ」ことの大切さや「教育を受けられる」ことへの感謝を知ることができ、帰国後は教員免許がなくても「生徒」と関われる、「生徒」の役に立つ仕事をしたいという思いから、不登校の生徒が通う適応指導教室で働きました。

・やって行きたいこと、目指していきたいこと
 

今は結婚をし、中国生活をしながら、中国語の勉強に励んでいる毎日ですが、将来的には英語教育に携わりたいと考えています。私は夫の赴任で中国に住んでいますが、この赴任は、いつ日本に帰れるかが分からないのです。今、中国では、英語教育が盛んに行われ、目にするところに英語塾、英会話塾の看板があります。また、幼稚園などでも英語教育を取り入れるようになり、英語教育における授業が人気を呼んでいます。私は、頭ごなしの受験英語、暗記だけで終わる英単語勉強ではなく、踊りやゲーム、身近なところから、楽しみを通じての英語教育に取り組みたいと思っています。

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