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夢があれば、叶う前に必ず乗り越えるべき壁にぶつかるもの

野村早希 (Saki Nomura)さん (Wedding Photographer / 児童英語講師)
 

京都生まれ、大阪在住。
高校2年生の修学旅行で初めて海外のアメリカへ。 
高校3年生夏、修学旅行先で知り合った、アメリカ人友人宅(アメリカ、ニューメキシコ州)へ一人旅行。
専門学校卒業後、アメリカ、カリフォルニア州へ渡米。 後、フリーランスTVディレクターのアシスタントを経て帰国。
現在、Wedding Photographerと児童英語講師を両立。

【始まりは音楽から】

それは小学校3年生か4年生頃だったと思います。 音楽が大好きだった私は、たまたま兄が持っていたCDを何気なく再生してみました。スピーカーから聞こえてくる声に魅了され、何度も何度もその曲を繰り返して聞きました。 今では世界的に有名な歌手ですが、当時の私は、その声の持ち主が誰なのか、何語で歌われているのかも知らず、ただただ耳を傾け口ずさんでいました。
その曲のとりこになった私は、毎日のようにその歌を聴くことで、いつしか彼女のように歌を歌いたいと思うようになっていたのです。 私はまだ小学生でしたので、当然英語の授業も始まっておらず、ABCのアルファベットさえ理解していなかったのですが、彼女の声を聞き、まねをすることでその曲を覚えました。 今思えば、この毎日の繰り返しが私の英語の発音へと繋がったのではないかと思います。
そして毎日その歌を歌ううちに、その歌詞の意味を知りたいと思うようになりました。 それまでは音としてしか捉えていなかった言葉の意味を理解することで、もっと上手に歌えるようになるのではないかと思ったからです。 また、彼女がアメリカ出身の歌手であることを知り、アメリカという国へ行きたいと思ったのもその時です。 まだ物事を正確に理解することの出来ない年頃でしたので、「アメリカへ行けば、彼女の様な歌手になれる」というデタラメな計算式が勝手に出来ていたのでしょうね。

【英語が嫌いになった私】

中学生になり、最初の頃は英語の授業が楽しみで仕方ありませんでした。 まねをして歌うことで知らず知らずのうちに英語の発音方法を覚えた私ですが、実際の英語科目の成績は平均より若干上をさまよう程度のもので、決して得意科目だったとは言えません。 発音が良いだけでは勿論テストで高得点を得られるわけではなく、文法というものを理解しなければならなかったからです。 「S+V+O+C」、こういった文法の説明方法に対し、「数学じゃないんだから・・・」とよく思ったものです。 単語帳を作ったり、丸暗記をしなければいけない、そんな勉強方法に嫌気がさし、英語が嫌いになってしまっていました。 ただ、それでも私と英語を繋いでいたのは、「アメリカへ行ってみたい」という思いが消えてなかったからなのです。

【初めての海外~一人旅行】

「アメリカに行きたい」、その願いが初めて叶ったのは、高校2年生の冬、17歳の時でした。 その時期、北海道へ行くよりアメリカへ行く方が安いという理由で、修学旅行の行先がアメリカ合衆国、カリフォルニア州、LAに決まってしまったのです。 団体旅行でしたし、現地では通訳の方が何人かついてくれていたので、英語で話すという機会はあまりなかったのですが、私が英語を勉強しているということを知った一人の通訳の方が、滞在中、私にはずっと英語で話しかけてくれました。 もちろん、簡単な挨拶くらいしかまともに出来ませんでしたが、凄く嬉しかったですね。 何気ない挨拶、 "Hello!"や "How are you?" に対して笑顔で応えが返ってくることに、少し自信を持てました。このとき、私にとって英語は「良い成績を取りたい科目」から、思いを伝えるための「言語」へと変化しました。 単語を覚えるのも大事なことですが、「話をしたい、伝えたい」、そう思うことの方が大切だと感じたのです。

実はこの修学旅行中に、私はある日本在住のアメリカ人の男性と飛行機の中で出会ったのですが、この修学旅行から7か月後、私は彼の奥さんが住むNew Mexico州の自宅へ2週間のホームステイをすることになりました。 飛行機の中ではたまたま席が近く、国語の先生が会話をするように勧めてくれたのがきっかけでした。 実際に話をしたのはフライト中の数時間でしたが、日本語も少し話せる方だったので私は片言の英語と日本語を混じえて、アメリカという国に住んでみたいという思いや、英語をもっと話せるようになりたいという思いを伝えたところ、自宅へと招いて下さったのです。 ただ、このホームステイを実現させる為、両親を説得するのに苦労しました。 特に母は猛反対していましたので、自分で貯めた貯金で飛行機のチケットを勝手に購入していたのを知られてしまった時は何時間も怒られましたね。 
この一人旅、まったく怖くなかったと言えば嘘になります。 まずTexas州で飛行機を乗り換えなければならなかったので、無事辿り着くのかも不安でしたし、奥さんがドイツからの移民ということを直前に知ったので、英語も通じなかったらどうしようと少しおじけづいていました。 そんな私を空港で迎えてくれた大きな笑顔は、全ての不安を消し去ってくれていました。 2週間の滞在期間の中、お互いに辞書を引きながら、時間をかけながらも沢山の話をし、一緒に過ごした時間は何ごとにも代えられない思い出となりました。

【専門学校時代 -大切な仲間との出会い-】

高校卒業後、私が選んだのは大学ではなく、専門学校への進学でした。 欲を言えばアメリカの大学へ行きたかったのが本心ですが、私のわがままで両親が莫大な学費を負担しなければならないのはフェアではないと思い、留学という言葉を心の中にしまい込み、日本で頑張ることを選びました。
専門学校では英語科に入ったのですが、学校が始まった初日からクラスメイトの英語力の高さに拍子抜けしました。 「英語を勉強する必要があるのだろうか?」と思わせる程、既に英語が話せる人が多かったのです。 話を聞くと、クラスメイトの半数は既に海外での生活を経験しており、通訳や翻訳等、技術面を磨く為にその学校を選び進学してきたということでした。 ただ、彼らは英語力の高さを鼻にかけることなく、更に上を目指そうとする意識の高さに感銘を受けました。 明らかに私の英語力は彼らの足元にも及んでいませんでしたが、投げ出さずに難しい授業についていけたのも、彼らの人間性、そして優しさに支えられていたからです。 片言だった私の英語が、人とコミュニケーションをとれるまでに発達したのも、この専門学校で出会った友達のおかげといっても過言ではありません。

【就職か渡米か?】

幼い頃描いた「歌手になりたい」という思いは既に消えていたのですが、次々とクラスメイトの就職が決まる中、私の頭の中は「アメリカへ行きたい」という思いで一杯になり、就職を考える余地はありませんでした。 ですが、現実的に考えるとアメリカに行くには当時の私の経済力では不可能に近く、就職しかないのかなと考え、実際に面接を受けに行ったりもしました。 そんな中、悩んでいる内にふと思い出したのが兄の姿でした。 私の兄は高校卒業と共に、「夢を叶えるんだ」といって鞄ひとつで家を出ていってしまったのです。 将来の保障も、誰からのサポートもなく、夢を叶えたいという想いだけを持ち、家を出ていく兄の背中を思い出し、アメリカへ行く決心をしました。
何か壁にぶつかってしまったら、それはその時考えればいいと、私を戸惑わせていた何かが吹っ切れたのです。

【カリフォルニア~運命的な出会い】

2004年9月、初めてアメリカに住んでみたいと思ってから十数年越しに願いが現実となり、カリフォルニア州オレンジ郡での生活が始まりました。 そこでの生活は想像以上に楽なものではありませんでした。 ある程度の英語は勉強していったものの、現地の人々の話すスピードについていけず、ホストファミリーとさえ会話がなかなか弾まない毎日でした。 私が通っていたのも、生徒の9割は日本人の留学生という語学学校でしたので、日本語が飛び交う学校でどうして英語を伸ばせばよいのか悩んだものです。 4年制大学への留学を断念し、自分の予算に合わせて語学学校を選んだので、近くの大学で授業を受けている日本人留学生の姿が羨ましく思えました。 差は歴然、でも負けたくありませんでした。 大学卒業にも負けないこと、それは経験を積むことだと考え、公立の小学校や障害者施設でのボランティア等、自分から応募し、現地の人と触れ合う機会を作りました。
そしてアメリカで生活し始めて数か月が経った頃です。 私が通っていた語学学校の先生と大ゲンカをし、そのまま学校を辞めてしまったのです。 大人気ないとは思いましたが、真剣に英語を学びたいと思う気持ちが全く伝わっていなかったことにショックを受けました。 そのまま帰宅し、ホームステイ先で飼っていた犬を連れて公園へと向かい、明日からどうしようかと途方に暮れていた時のことです。 その公園である日本人女性とそのお子さんと出会いました。 この出逢いが後に私の人生を大きく変えるものになるとは、その時は知る由もありませんでした。

【ピンチがチャンスに】

公園で出会った女性に、学校を辞めてきた理由等説明すると、彼女はこう私に言ってくれました。

「今度うちにご飯食べにくる? 旦那がずっとアシスタント欲しがってるんだよね。」

この時完全に塞がっていた道が少し開けた気がしました。
彼女のご主人はフリーランスのTVディレクターで、主にドキュメンタリー番組のリサーチャーとして活躍をしている方でした。 数日後、私は夕食を御馳走になり、そのままアシスタントとして仕事を教えて頂けることになったのです。 
ドキュメンタリー番組のリサーチといっても、番組の内容は毎回多岐に渡り、当然私がもっていた英語力では通用せず、インタビューのアポイントを取るために辞書を片手に電話をかけまくったのを鮮明に覚えています。 英語力以前の課題もあり、番組によっては医学用語を理解しなければリサーチもスムーズにいかないものも沢山ありましたし、その情報量の多さについていくのが必至でしたね。 社会人として、一人の日本人として、知っておくべき知識が全く身についていなかったということを恥ずかしくさえ思うこともありました。 しかし、自分が生まれた日本という国、そして地球という宇宙に存在する星のことをもっと知りたいと思うきっかけになったのも事実です。
この上司一家は、仕事だけでなく、プライベート面でも常に私を支えてくれましたし、沢山の人を紹介してくれました。 そしてまたそこから新たに人と出会い、そして出会いが出会いを呼び、様々な経験をすることができました。 

【決断】

犬の散歩から沢山の出逢いを得て、沢山の人に助けられながら、支えられながら毎日を過ごしているうちに、いつの間にか、このままずっとアメリカで暮らしていきたいと思うようになっていました。 しかしその反面、こうして異国の地で生活をすることが出来ているのも、多くの支えあってのことで、私一人の力では何も出来ないこともわかっていました。 このまま人の優しさに頼り、甘えていてはダメだと思い、日本に帰国すること決断しました。

【カメラマンへの道のり】

悩みに悩んで帰国を決断したものの、帰ってきて数週間、私は逆ホームシック状態に陥ってしまい、仕事を探すより、アメリカへ戻る方法ばかりを考えていました。 一番大切なことは、自分が今どこにいるのかではなく、何に向かって頑張っているのかだということに気付くまで時間がかかりましたね。 アシスタント時代の経験も生かしながら、上司から教えてもらったものを大事に、何が出来るのだろうかと考えながら仕事を探し、私はカメラマンという職業を選んだのですが、それには理由があります。 私は写真を撮られるのが苦手だったので、アメリカでもそんなに写真を残しませんでした。 全ての楽しかった出来事や、大切な人々と過ごしたその事実は、形として残っておらず、私の記憶の中だけに存在しています。 帰国した以上、簡単にアメリカへ戻ることもできず、思い出が過去のものになっていってしまうことに寂しさを感じました。 過去となってしまった時間も身近に感じられるように、記憶が形になればいいのにとそう思いました。 こんな思いから写真に興味を持ち、写真カメラマンを目指し始めたのです。 商業写真ではなく、ブライダルカメラマンというフィールドを選んだのも、人の一番幸せな瞬間、そしてこれだけ沢山の人々に囲まれ、祝福されていたのだということを覚えていて欲しいと思ったからです。 カメラマンとしてはまだまだですが、「幸せになってほしい」そう思う気持ちは絶対に負けません。

【英語講師とカメラマンの両立】

写真撮影にもなんとか慣れ、フリーランスカメラマンになった頃、大きく目立ち始めたのが、英語力の低下でした。 使わなければ忘れてしまうもの、とよく言われますが、気付いた時には、自分でも信じられないほどに会話力も単語力も落ちていました。 多少は仕方のないことと思っていたのですが、やはりショックでしたね。 撮影の傍ら、児童英語講師の仕事を始めたのも、これ以上英語力を落としたくないという思いがあったからです。 しかしながら、一生懸命英語を勉強しようとする生徒の姿を見て、自分の英語力のことはさておき、子供達が英語で流暢に会話できる日を想い描いています。 私も経験したように、人と英語でコミュニケーションがとれるようになるまでに、壁にぶつかったり、悩んだりすることも少なからずあると思います。 でもこれは英語だからではなく、私達はすでに日本語でも経験していますよね。 生まれてすぐの赤ん坊だったころ、「お腹がすいた」ということを言葉でどう表現すればよいのかわからず、泣くことでしか母親に伝えることができませんでした。 伝えたい気持ちは、手段を知らないが故、伝えられない悔しさにも変化してしまいます。 しかし時を経て、言語を使って「話す」ということがいつの間にか出来るようになっているものです。 英語習得には確かに時間と努力が必要です。 ですが勉強や習い事の一貫としてだけではなく、子供たちの「伝えたい気持ち」を大切に、英語学習の手助けが出来ればと思っています。 そしていつか、英語を通して何か大事なものを見つけ、将来の夢に向かっていってくれれば嬉しいですね。 

【諦めずに信じ続けたい】

十数年間、アメリカに行きたいと思いながら日本で過ごした時間の中で、私は沢山の友達を得ましたし、様々なことを経験しました。 英語も勉強しました。 時間はかかりましたが、一つ一つの出逢いや経験は繋がり続け、私はアメリカ生活を実現することができました。 夢があれば、叶う前に必ず乗り越えるべき壁にぶつかるものです。 まだまだ私も沢山叶えたい夢や願いがあります。 時として怖くて勇気が出せずに一歩を踏み出せない時だってあります。 しかし、幼い頃のように、難しくても諦めず、全ては繋がり続けると信じていこうと思っています。
カメラマンとして、英語の講師として、一人の人間として、何よりも人との出会いに感謝し、そしてとり戻すことのできないこの一瞬を大切に生きていきたいと思います。

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