「隣の人の英語と人生」カテゴリーアーカイブ

英語を使う現場で活躍する人たちの声

英語は生きていくために必須なものとなる

英語と人生
平野隆嗣 (Ryuji Hirano)さん (外資系ITコンサルティング会社)
 
神戸市生まれ。 甲南大学経営学部卒業。 Chapman UniversityにてComputer Information Systemsを専攻。 卒業後、カリフォルニア州の住宅機器メーカーでのウェブサイト・社内ポータル構築業務、監査法人でのTAX業務のインターンシップを経て、日本へ帰国。 現在、外資系ITコンサルティング会社で活躍中。 主に、大手総合家電メーカーにてSCM関連のシステム導入(SAP)、改善案件や提案活動などを担当している。

<中学時代:英語嫌いだった>

中学時代、英語が嫌いだった。
単純に、テストの成績が一番よくない科目だった、というのが英語嫌いの理由だった。 今思うと、「何故英語を勉強するのか」という目的も、「英語が話せると何が変わるのか」ということも分からず、楽しさを見出せなかったからだと思う。

<高校時代:英語って必要かも?>

両親ともに仕事は忙しかったが、それでも毎年夏休みに家族旅行に行くことが家族の恒例行事だった。
このころは東南アジアを中心に毎年海外に旅行をしていたため、海外の多様な人種や文化に触れることが出来た。 弟がInternational High Schoolに入学したのもきっかけで、「英語を話せると世界が広がる」と感じ始めたのか、英語に触れる機会が増え、いつの間にか得意科目になっていた。

<大学時代:カリフォルニアへの短期留学>

正直、大学1回生・2回生の時分はろくに勉強もせず、遊んでばかりいて、これまでの人生で一番無駄な時間だったと思っている。
これではいけないと思ったのが大学3回生の夏、California State University, Long Beach校の語学プログラムに1ヶ月ほど短期留学をした。 ホームステイの家族と過ごしたり、アメリカ人とサーフィンをしたり、レンタカーで出かけてたり、「アメリカで生活する」ということを経験した。
この経験を通して、アメリカ人のバイタリティと、アイデンティティに強く影響を受け、本格的に留学することを決意した。

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<留学時代:アメリカでの大学生活>

甲南大学を卒業後、その9月からCalifornia州のChapman Universityという比較的規模の小さな私立大学で、留学生活をスタートさせた。
将来どんな仕事につきたいか、という具体的なイメージはまだなかったが、ITのスキル・知識は必ず必要になると思い、Computer Information Systemsという専攻を選択した。結果として、アメリカでの大学生活を通して、英語力が向上し、同時にITの知識・スキルが身についた。
それ以上に自分が成長できたと感じたことは、「Confidence(自信)」。 同じ後悔をするなら、「やればよかった」という後悔はしたくないので、「自分には無理だろう」と可能性を狭めずに、常にChallengeするようになった。
いつの間にか、物事に動じることもなくなり、何事にも自信をもてるようになった。

<仕事>

卒業後、日系企業の住宅機器メーカーに就職した。 商品のウェブサイト、ショッピングサイトの構築、また自ら提案した社内ポータルの構築を手がけた。  給湯器、ウォシュレットなどの営業や修理にも関わったり、Home Showなどの展示会に参加したり、様々な経験が出来たと思う。
その後、会計の勉強にと監査法人でのTAX業務のインターンシップを経て、ボストンのキャリアフォーラムにて外資系ITコンサルティング会社に入社し、日本に帰国した。
帰国後、ITコンサルタントとして、大手総合家電メーカーにてSCM関連のシステム導入(SAP)、改善案件や提案活動などを担当し、現在に至る。

<英語>

なぜ、英語が必要なのだろうか?経済大国1位のアメリカについて考えてみた。 

アメリカが世界を牽引してきた理由は、「アメリカ人が優秀だから」ではないと思っている。 移民政策によって世界中から優秀な人材が集まり、教育やビジネスを発展させた、というのが背景にあり、「アメリカに優秀な人が集まり、優れた教育システムを作ったから」だと思う。 例えば、Googleの創業者であるセルゲイ・ブリンは、ロシア人だ。 世界で最高水準の教育レベルを誇るスタンフォード大学在学中に、友人と検索システムを開発した。 そしてGoogleは世界中から優秀な人材が集まり、世界中の人に最も使用される検索エンジンに成長した。
これからグローバル社会で生き抜くためには、海外から集まった優秀な人材と仕事をし、海外をターゲットに仕事をしていかなくてはならない。 同僚がアメリカ人、後輩がインド人、上司が中国人なんてことが当たり前の仕事環境になる。
その上で、「英語はコミュニケーションをするための共通語」として必ず必要な、ツールである。
ただし、「英語力」だけで満足しないで欲しいと思う。

もう一歩先を考えると、インドは理工系の教育に力を入れており、ITビジネスの人材を輩出する最大国となった。 中国は、圧倒的な労働力と上昇志向の高い国民性を背景に、OEMを中心とした製造業を成長させてきた。 もはや日本が「IT産業」や「製造業」だけで、インドや中国に勝つことは難しい。 今後、日本がどのような方向に進んでいくかは疑問である。 しかし、英語力を生かして様々な教育を受け、専門的な知識、論理的思考、創造性を兼ね備えた「ハイブリッド」な人材が、日本の政治・教育・ビジネスを牽引していくと思う。

「英語力」を身につけることが、あなたの可能性を広げてくれる。 そして、英語は生きていくために必須なものとなる。できるだけ多くの人がそんな意識を持って英語に触れ、習得していって欲しいと思っている。

好きこそ物の上手なれ

荒川 葉子 (Yoko "Nobori" Arakawa)さん (中国広東省恵州 在住)
 
大阪生まれ。 地元の大学にて政経学部政経学科へ入学し、経営情報学部経営情報学科に編入。 
大学の交換留学生としてアメリカ・NY州エルマイラ大学へ留学したのをきっかけに、日本の大学を休学し、そのまま、エルマイラ大学を卒業。帰国後、日本の大学へ復学し、NPO法人・日本リアリティセラピー協会、日本選択理論心理学会にも所属。 
同大学院、経営情報学研究科にて「日本の経営倫理について」学び、卒業。
東京で保育園の保育スタッフ、アメリカ・フロリダ州Lakeland、Blake Academy(小中学校)にてインターンシップ、東京都大田区教育委員会管轄の不登校生徒のための学校にて適応指導教室勤務、NPO法人・女性人権センターステップにて電話相談カウンセラーなどを経て2008年12月に結婚。 現在は、ご主人の仕事上、中国・広東省恵州にて生活をしている。

・英語と私 ~英語学習から英語教育へ~

実は、タイトルにもあるように、私はただ英語が好きなだけでした。この好きな気持ちは、あこがれでもあり、夢でもありました。 英語を話す人が輝いて見え、その姿が、私の理想像となっていたのでした。

私の小学校は当時では珍しく、4年生から英語の授業がありました。 その頃の授業は、先生の言うことを聞いたり、発音してみたりと、あまり楽しいものではなかったのですが、「好き」という気持ちが強かったので、英語に関わること自体が楽みでした。 
小学校での英語授業の始まりと同時期に、ECCにも通い始めました。 ECCは会話重視だったのですが、英単語のつづりが全く読めないので、聞いたものを必死に真似するだけでした。 単語の読み方を丁寧に、細かく教えるということを全くしてくれなかったので、先生が教材のどこを読んでいたのかすら分からないときもありました。 しかし、ここでも、英語を学べるというワクワク感が学習を継続させてくれたのでした。 今思い返せば、全く会話の意味は分かっていなかったのですが。

中学校の授業では読み書き重視だったので、ひたすらテストのために暗記する勉強でした。 でも、英語を話したいという思いの強かった私は、テープやCDを通して、発音にも力を入れていました。 英語に関する歌や、外国の小咄、国際文化など、いろいろな視点から英語に携わる物・事・人に興味を広げていったのですが、全くと言って良いほど、外国人と関わるチャンスはありませんでした。 

14歳の春休み、大阪市とオーストラリア・メルボルン市の姉妹都市交流の派遣団の一員として2週間のホームステイ旅行に行きました。 私の初めての海外旅行です。 ここでの経験が私の英語への想いを更に強くしました。
すごく楽しい経験、素晴らしい出会い、見るもの聞くもの全てが初めてで、感動しました。 それと同時に、苦痛な出来事もありました。 英語が「しゃべれない」のです。 それまで、英単語の暗記をはじめ、英語のテストにはかなり力を入れてきたのですが、いざという時に、まったく聞き取れず、しゃべれませんでした。 
そんな私に対しても、ホストファミリーは、いつも笑顔で優しく、親切に接してくれました。 その時に思ったのです。 もっといろんな自分の気持ちを伝えたいと。 この経験が、その後の英語学習のモチベーションとなっていったのは言うまでもありません。 同時に気付いたことは、英語は人と人をつなぐコミュニケーションのツールでなければならないということでした。

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高校では国際文化コースに進み、たくさんの英語授業を受けました。 しかし、ほとんどの授業は、受験を目指すためのテクニックや、暗記重視、テスト重視でした。 会話を楽しめる機会は週に1回、オーラルコミュニケーションという授業のみでした。 しかし、この授業でさえも、45人のクラスに1人の外国人講師だったので、楽しめるわけがありません。 私も他聞にもれず、大学には行きたかったので、受験英語だと割り切って英語の勉強をしていました。 しかし一方で、受験だけに縛られたくないという思いもあり、外部で開催される国際交流会などにもよく参加していました。 交流会を通じて、英語圏の友人を作ったり、英語を話すチャンスを作ったり、交流会後もコンタクトを取って遊びに出掛けたり、その友達が帰国した後でもペンパルとして交流を続けたりしていました。 この頃からでしょうか。話せる、聞けるという感覚を少しつかみ始めました。 
高校生の夏に、大阪府と中国・上海市の姉妹都市交流団に選ばれたことがあります。 2週間で4都市を訪問しながら、現地の中高生たちと、文化交流を楽しみました。この時に驚いたのは、中国での交流にもかかわらず、共通言語は「英語」だったのです。 当時、英語を話せる生徒はほとんどいなかった日本側に対して、中国の生徒たちは、おどおどせず、間違っていても一生懸命伝えよう、話そうという気持ちから、英語でしっかりと話しかけてきました。同年代の中国人達が英語を使って積極的に交流をはかっていた光景は、今でも鮮明に記憶に残っていて、当時はかなりのショックを受けました。 

大学生となり、同じ大学内で転部した夏、交換留学生として、アメリカ・NY州のエルマイラ大学へ留学しました。 もっとアメリカで勉強したい。 そういう想いが日増しに強くなり、日本の大学の単位を移行して、残りを全てアメリカで取ることにしました。留学1年目は、「自分は英語だけの環境にいるのだから、やるっきゃない!」という思いで、ただ突っ走りました。 そして、2年目突入の頃に、なんか英語が聞き取れる、分かるって感じが具体的につかめるようになって、話すことに関しては、「話して間違っても、訂正すれば良い」と、開き直ることができるようになりました。
留学2年目にして、やっと英語を話すことに対して「自信」がついてきました。それまでは、積極的に前に出ては英語を使っていたのですが、聞き取りも含め て、なかなか自信に結びつかなかったのです。 いろいろな経験も積んできていたのに、いざとなると、時々、英語が怖くなることがありました。 それでも、 自分で選んで決めた留学に、「諦める」という文字はありませんでした。 そして、2002年6月には、とうとうエルマイラ大学を卒業することができたのです。

帰国後は、国際交流事業のボランティア通訳をしたり、災害時の緊急通訳として登録をしたり、教会に来たミッショナリーの通訳をしたり、ホームステイを受け入れたりと、「英会話力」を使って、あちこちを奔走しました。 また、大阪・千里インターナショナルスクールのスペシャルプログラム事業であるサタデースクールとサマープログラム(Just For Kids)で、アシスタントスタッフとしてアルバイトをしました。 この時から、英語を学ぶことだけでなく、教えることや教育自体に強い関心を持つようになってきたのです。
それ以降は、英語を教えることや教育に力を入れ始めました。 東京の保育園にて保育スタッフとして勤務したり、NPO教育支援協会管轄の小学校英語指導者資格(J-Shine)を取得したりしました。 また、東京都大田区教育委員会管轄の不登校生徒のための学校で適応指導を行ったりもしました。

今は、中国・広東省の恵州にいて、英語の通じない生活をしています。 しかし、この地でも英語の大切さや重要さは日々感じています。 いつか日本に帰ったら、英語教育に携わって行きたい。 それが、私の夢であり、これからの人生です。 

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~English Gives Me Tons Of Chance!~

・英語を学ぶことは、どうして必要なのでしょうか?

国境を越えて、民族や人種という壁を越えて、お互いを知る上での手段として。
それが私の考える英語学習の必要性です。現在、世界中で約15億人の人が英語を使って意志疎通が出来ると言われています。これは地球人口の約4分の1にあたる人数です。
私は今、中国広東省恵州に住んでいるのですが、ここの町では4つの言語、北京語、広東語、客家語、恵州語と、似てもにつかない、違った言語が飛び交っています。そして、政府改革によって、公用語は北京語と定められています。しかし、13億人が住むこの国では、地方、地域、または過去の教育過程に置いて北京語を学んだことがない人も居るので、全ての中国人が北京語を話せるわけではありません。恵州は他の主要都市と比べ、大変小さい町です。
※恵州市:1988年に制定、日本の岐阜県くらいの広さに約376万人が住んでいる。

いくつかの日系企業や外資系企業があり、ビジネスの町としては盛んですが、4つの言語が飛び交い、教育水準も皆、てんでばらばらな人々が集まる町なので全く英語は通じません。そして広東省は、特に地方からの出稼ぎ労働者が多いため、中国北部、西部、東部地方からの出身者が多いです。

もし、町で何かトラブル(事故や病気etc)が起きて、近くの人に救いを求めてもhelpという単語でさえ99%分かってもらえないのです。そんな町でも、緊急事態の際、対応してくれる電話番号があります!これは異国から来た人々にとっては嬉しい電話番号です。―しかし、その対応言語は"英語のみ"なのです―町に住む人々の90%以上が英語を話せない町でありながらも、英語対応の電話番号を設けているということは凄いことですよね。ここで、もし英語が分からない場合、きっと多くの人は自分の言語を話せる相手を捜すために四苦八苦するでしょう。
英語を学ぶことが必要という理由のひとつとして、中国恵州に限らず、多くの国が英語対応の緊急策オフィス・電話番号を設けている点があげられます。海外旅行で利用する際の日本語対応の電話番号だけでは、自分の身が危険にさらされているとき、助かる確率が小さくなりますが、英語という強みを持つことで、身の安全性をより一層高く早く解決に導けるでしょう。

・英語を学んだらどんな楽しみがあり、どんな広がりがあるのでしょうか?

極端に言えば、少なくとも70ヶ国の人々と交流ができるようになります!これは英語を公用語としている国が約70ヶ国あるということだけなので、英語が公用語でなくても、英語を使える人を見つければ、70ヶ国以上の人と交流できます。オリンピックや世界サミットなどが良い例でしょう。
楽しみとしては、自分自身の趣味や興味について共有することが出来ます。例えば、私はディズニーランドが大好きです。今ではディズニーランドはアメリカを始め、フランス、東京、香港にあります。そして、2013年には上海ディズニーが完成します。世界中で愛されているミッキー。ディズニーの物語やキャラクター達は世界共通のエンターテイナーと言っても良いでしょう。私はディズニーランドに行きたいがためにアメリカのフロリダに住む友達を作り、香港に住む友達を作り、東京に友達が来た際には一緒に東京ディズニーへ行って、ディズニーの魅力を楽しみ、英語という言語を通じて、ディズニー映画についても語り合うことが出来ました。好きなことで友達も広がり、外国旅行へ行ける楽しみとなるのです♪

・英語を話せて・・・
 

私はいつの頃からか教育について、とても興味を持ち始めました。しかし、年齢とお金の問題から、教員免許を取るための取り組みや、大学へ行き直すということが出来なかったのですが、幸い英語が話せるという強みと、アメリカの小学校の校長先生と友達だったおかげで、日本文化紹介の教員としてインターンシップをするチャンスを得ました。就労VISAなどは無かったため、無報酬でのインターンシップでしたが、2ヶ月間、アメリカの教育について肌で体験することが出来ました。ここでは英語で「よさこい踊り」を教えたり、日本の小学生たちのこと、教育について、折り紙授業などをしました。日本では教員免許がなければ、教壇に立つことさえ出来ないのですが、アメリカでの自由な受け入れ体制とボランティア精神で、「先生」として生徒と向き合い、英語を通して日本の良さを伝えることが出来ました。この経験から、「学ぶ」ことの大切さや「教育を受けられる」ことへの感謝を知ることができ、帰国後は教員免許がなくても「生徒」と関われる、「生徒」の役に立つ仕事をしたいという思いから、不登校の生徒が通う適応指導教室で働きました。

・やって行きたいこと、目指していきたいこと
 

今は結婚をし、中国生活をしながら、中国語の勉強に励んでいる毎日ですが、将来的には英語教育に携わりたいと考えています。私は夫の赴任で中国に住んでいますが、この赴任は、いつ日本に帰れるかが分からないのです。今、中国では、英語教育が盛んに行われ、目にするところに英語塾、英会話塾の看板があります。また、幼稚園などでも英語教育を取り入れるようになり、英語教育における授業が人気を呼んでいます。私は、頭ごなしの受験英語、暗記だけで終わる英単語勉強ではなく、踊りやゲーム、身近なところから、楽しみを通じての英語教育に取り組みたいと思っています。

聴くことから英語に馴染んでいった

英語と人生
K・Kさん (米国物流会社勤務)

大学卒業後、英会話学校講師、外資系家電メーカ販売、不動産販売会社を経て、MBA取得のため渡米。
95年に学位取得後、就労ビザで米国内日系企業に就職。97年に米国企業へ転職。5年間日本支社で勤務した後、再度帰米。
現在は、米国物流会社で日系メーカ営業担当として勤務。

英語に出会ったきっかけ

中学の頃、兄のSANSUIのステレオから流れてくる洋楽に惹かれました。
当時は、ロッドスチュアート、トト、ブルース・スプリングスティーン、ジャーニー等のアーティストが全盛。高校に入っても洋楽を聴き続け、FM雑誌を定期購読、レンタルレコード屋に入り浸り、店長さんの影響を受けソウルミュージックとユーロビートのファンになりました。大学に入り、バンドをやっている友人と出会い、ハードロックを嗜み、ジューダスプリーストのコンサートへ行ったりしました。その勢いで入部したESSでは、スピーチコンテストに出たり、舞台を踏んだりしました。3回生の夏、ゼミ教授のアドバイスでカリフォルニア州のバークレーでホームステイしました。それがすべての始まりでした。

英語取得に役に立ったと思うこと

学生の頃に趣味で聴いていた音楽や、ESSで習得した基本的スピーチスキルなどは役に立っています。社会人になった後も、夜中に放映しているアメリカドラマの副音声を録音し、通勤時間に聞いたりしていました。最初は音声だけなので何を言っているのかさっぱり分からないのですが、繰り返し聞いて、辞書で音と文字を合わせているうち、気がついたら聴けるようになっていました。映像がなかったことが理解しようとする欲望をあおったのだと思います。大学時代は時間があると、図書館へふらっと行って、米国大統領のスピーチのビデオテープなども閲覧していました。

聴くことから英語に馴染んでいった

中・高の英語の成績は中の上。大学で入部したESSや、3回生で行ったホームステイで生きた英語に出会い、目覚めたんだと思います。それに加えて、中学、高校時代に聴いていた洋楽がイディオムや口語に慣れさせ、社会人になってハマッた二ヶ国語ドラマもやはり聴くことが中心だったので、自然と「英語耳」ができたのではないでしょうか。

現在は

勤め先が米国企業であり、職務遂行のため、英語は必須になっています。上司もアメリカ人なので、メール、電話など殆ど英語を使っています。ビジネスシーンで必須の交渉、説得、プロジェクトマネージメントの表現を磨くべく、ラジオ、ケーブルチャンネルの討論番組等から使える表現を盗んでいます。また、こちらでもビジネスプロフェッショナル向けのスピーチ本やCDが多数あり、それらも活用しています。

「英語を勉強する」と言うのは現実味を帯びた必須条件

内河 丞士(Joji Uchikawa)さん (州立ハワイ大学海洋学部 博士課程)

1976年生まれ。 1997年、静岡県内の公立普通科高校を卒業した後に渡米。 州立ハワイ大学に入学。 2001年、同大学海洋学部地球環境科学科から学位取得。 2002年より同大学海洋学部、地質海洋学/地質化学科への大学院進学。 2006年に修士課程を終了し現在は博士課程に所属。専攻は古海洋学、古気候学。

私が「英語ができるようになりたい」と最初に自発的に思ったのはおそらく中学1年の頃だったと思います。 その当時、某大学の国際関係学部に在籍していた方に、日頃の学校の課題のサポートや高校受験対策として、家庭教師をお願いしていました。 その先生はいわゆる帰国子女で、大学の長期休暇を使って海外旅行に行ってはちょっとしたお土産を私に買ってきてくれたものです。 私はその「単身でフラっと海外に行けてしまう」、「英語を使って外国でも苦労なく人とコミュニケーションがとれる」という事に非常に刺激を受け、単純に「カッコいい」と感じていました。 
今になって思えば、私の英語の「根本」を植え付けてくれたのはその先生でした。 彼の教え方というのは少し独特でした。 もちろん日頃の学校での宿題のサポートをしてくれました。 けれど英語に限っては中学の教科書であったり高校受験用の問題集はほとんど度外視して、「生きた英語」、「本当に使える英語」というものに重点を置いてくれていたようです。 

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まず、先生が私に徹底して伝えてくれた事は、「Apple」とは、あくまで「Apple」であって「アップル」でも「りんご」でもないという事でした。 要するに、『英語は英語であって、それをいちいち頭の中で日本語に変換するのはナンセンスだ』、という事です。
今の私も思っている大切な事は、本当の英語力とは、英文を読んだり聞いたりした際に、その状況や情景を頭に中にすんなりと浮かべることができるという事に尽きると思います。 英語を頭の中で日本語に置き換えて、その日本語での情報をもとに状況を把握するのは単なる二度手間です。 最初から英語の情報を自分の頭の中で英語としてプロセスできる事が大切だと思います。

そしてもう一つ、先生が私に徹底した事は『英語の文章を読解する時にすんなり頭から読解しなさい』という事でした。例えば、日本の学校教育や受験英語で「この関係代名詞の"which"が文中での何を示すか書きなさい」というお得意の問題があります。 でも、この手のタイプの問題は、代名詞であったり関係代名詞が文中に出てくる度に、その前に戻って文章を読む悪い癖が身に付いてしまう可能性があります。 日本語を読んだり聞いたりするときに「それ」や「そういった」という事が何を指すか、いちいち気にしながら内容を読解する人はいないはずです。 これは英語も同じ。 文章を文頭から文末まで、逆戻りしたりせず、まっすぐに繋げて内容を把握するのが一番簡単です。 この二点は今英語を勉強している人、あるいは今後もっと英語に取り組みたいと考えている人に、是非日頃から留意してもらいたい点です。 早い時期から『英語は英語である』という線引きをする事が不必要な混乱を避け、英語レベルの上達の近道になると思うからです。

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「では、そもそもなぜ英語が必要なのか…」  「英語が使えればどんな可能性があるのか…」

これは一人一人が自分で答えを見つけなければいけないと思います。 「ビジネスチャンスが広がる」と答えるのもいいだろうし、「海外の人とコミュニケーションが取れるようになる」と答えるのもいいと思います。 あるいはもっと現実的に「受験や資格のために必須である」というのもあるでしょう。 

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私の場合は上記したように「英語に対する純粋な憧れ」もモチベーションの大きな弾みになりましたが、高校2年の後半からはもっと現実味を帯びた「英語を勉強しなければならない理由」ができました。 当時私はせっかく大学に進学するのであれば、ちゃんと自分が興味をもって勉強できる事をやりたいと思っていました。 「将来の就職に有利そうだから志望は経済学部にしておこう」とか「とりあえず有名だからあの大学に行きたい」といった理由での進学は単なる時間と費用の無駄に思えて仕方ありませんでした。 そして自分の興味を優先した結果、自分は海の環境や海洋生物について勉強したいという結論に至りました。 しかし、残念ながら海洋学部自体が当時は日本の大学に少なかったことや、高校での選択科目と受験科目の折り合いが付かなかったなどの理由で海外留学を考えるようになりました。 結果として自分にとっては「英語を勉強する」と言うのは現実味を帯びた必須条件になりました。

そしてほぼ高校卒業と同時に渡米し、アメリカで大学進学をしてから10年以上が過ぎました。 私は現在、州立ハワイ大学海洋学部に在籍し理学博士号を目指して研究に従事しています。 今の自分にとっての英語は「勉強する科目の一つ」から「自分が勉強、研究している事を伝えるための道具」という位置づけに変わりました。 研究者は自分の研究内容、結果や成果、そしてそれによって得られたデータの考察を学術論文や学会でのプレゼンテーションという形で発表しなければなりません。 もちろん日本語を母国語とする私には、日本語で学術論文を書いて、日本の専門誌に寄稿するという選択もあります。 しかしそれでは、その論文は同じ分野で活躍する研究者達のうちほんの数パーセント程の人の目にしか止まらないし、引用される事もありません。 
論文とは誰かの目にとまり、その人の論文に引用される事で価値が付くものです。 より多くの人に読んでもらうには、当然、英語で論文を書くのがベストです。 そんな今の自分にとって英語とは、自分のデータや研究での発見を論文という形で世界に向けて発信するツールです。 そして今後も意義のある研究をするとともに、自分が発表する内容を、英語を「母国語」として使う人達だけでなく「外国語」として使う人達にも同じように簡潔で分かり易く伝える事ができるように、より自分の英語スキルの発展に勤めたいと思います。

[参照]

州立ハワイ大学海洋学部

http://www.soest.hawaii.edu/oceanography

内河さんホームページ

http://www.soest.hawaii.edu/oceanography/students/juchikawa.html

英語を身につけた後で何をするのかを明確にイメージすること

石橋宜忠 (Yoshitada Ishibashi) さん  (大手インターネット広告代理店 取締役)

 
静岡県出身。大学時代、アメリカンフットボールに熱中。
休学して、テキサス工科大学に語学留学し、大学を卒業後、大手コンサルティング会社に入社。
南カリフォルニア大学(USC)、国際ビジネスプログラム(IBEAR)にて、経営学修士課程(MBA)を取得。
帰国後、ベンチャー企業の参画を経て、コンサルティング会社を設立。 
現在は、インターネット広告代理店の取締役として活躍中

1.英語との出会い
私は、小学生の頃、英会話学校に通っていました。当時、静岡県の田舎で、英会話学校に通っている子供は、非常に少なかったと思っています。今では、なぜ自分があの学校に通っていたのかさえも、思い出せない状態です。たぶん、親が将来のことを案じて、学校に行かせてくれていたのだと思います。
ひとつだけ覚えているのは、自分の名前にニックネームがつけられ、それを呼び合っていたのがすごく恥ずかしかったことです。それが何なのか?全く理解できずにいました。

2.大学に入って
普通に大学受験を終えて入学し、体育会アメリカンフットボールに入部しました。 毎日が練習の日々でした。 そんな中、強くなりたい一心で、海外のアメリカンフットボールの文献を真剣に訳したのを覚えています。 勉強以外で、実務で英語に触れたのはこれが最初でした。 しかしながら、ほとんど受験のためにしか、勉強したことがなかったため、理解するのが本当に遅かったのを覚えています。 一方、クラブには、たまたま帰国子女がいて、彼の翻訳スピード(読みながらすぐに訳す)には、非常に驚きました。 こんな人がいるのかと。 それまで、英語は「勉強のため」というイメージ強かったのですが、「コミュニケーションとしてのツール」だと感じたのはこの時が初めてでした。

3.最初の留学体験
大学時代、アメリカンフットボールに没頭していたため、他のことをやったことが無かった私は、卒業を1年延期し、アメリカに留学することにしました。 社会人になる前に、どうしても海外、しかもアメリカを見ておきたかったのが動機でした。
テキサス工科大学の語学コースを4ヶ月間受講しましたが、最初の出来事は
今でも忘れません。 飛行機を乗り継いで20時間以上経って、やっとテキサスの地方空港まで着き、なんとかホテルまで辿りつくことができました。その旅程でほとんど機内食しか食べておらず、お腹がすいていた私は、ホテルでルームサービスを頼みました。この時、はじめて電話(内線)で英語の会話をしたのです。 しかし、私は"ハンバーガー"を頼みたかったのですが、全く通じず、最後には、"お前は英語をしゃべっているのか?"といわれる始末でした。(本当は違うことを言われたかもしれませんが。) 自分はハンバーガーを食うこともできないのかと打ちのめされた経験でした。

留学そのものは、非常に楽しく、英語の勉強よりも、いろんな人と遊ぶことに熱中していました。ドミトリーのルームメイトもアメリカ人で、仲良く4ヶ月間過ごすことができました。 ただ、後に気づくことになるのですが、結局は英語学校の各国の外国人の間で、お互いネイティブでない環境で話すことが出来たにすぎず、それをコミュニケーションと勘違いしていたのです。

4.社内試験と転機となる先生との出会い
大学卒業後、コンサルティング会社に入社した私は、国内プロジェクトのみに配属され、英語との接触はなくなりました。 将来、自分が40-50歳になる頃には、必ず国際社会が来ることが予想されていましたが、日々の忙しい業務の中で、見えない目的や漠然とした将来のために、英語の勉強を自主的に行う意欲はありませんでした。
そんな中、社内でTOEIC試験を受験する制度が作られました。確か、28-29歳頃だったと思います。忙しいプロジェクトの中、ある日、クライアント先から自社に戻り、社内の会議室で試験を受けました。 その結果、なんと300点台!(370点付近)だったのです。 当時、社内の役職(マネージャー)以上の中で、最低点だったかもしれません。(人事部は教えてくれませんでしたが、いろんな人と会話していて、私より点数の低い人は見つかりませんでした。)
一方、その頃入社してくる新人は、年々非常に英語レベルが高く、普通に英語を使える人が多く入ってくるようになっていました。そして、それらを身近に感じていた私は、「将来やばいぞ・・」と実感していました。 そのため、大きなコンサルティングプロジェクトを終了し、2ヶ月間の有給休暇をとった時、昼間の英語学校に思い切って短期入学しました。この時の学校の先生との出会いが、自分にとって、大きな転機になりました。
この先生の授業は、すごい衝撃でした。単に英語を教える(暗記させる)だけでなく、映画の話や歴史の話など、文化に踏み込んで話をし、聞いていてものすごく楽しく、そして奥の深さを知らされました。

5.MBAへの決意
30歳になった頃、一通の年賀状が届きました。それは上記の先生からでした。先生が独立して英語学校を作るという話でした。また、私にとっても自分の人生をどうしていくのか?を真剣に考える機会になりました。それまで、コンサルティング業務を全力でこなし、それなりの評価は得ているものの、本当に将来大丈夫なのか?という不安がありました。そんな中、先生の新しい学校に、英語だけでなく考え方や文化なども学ぼうと通うことにしたのです。 そして、先生とも話を重ね、将来の自分の可能性を拡げて、かつ来るべく国際社会に向けて自分が40-50歳までいきいきと活躍するために、MBA取得に米国へ行くことを真剣に決意しました。

6.MBAへの勉強
週末は、実業団のアメリカンフットボールチームに所属していたため、空いているのは平日の朝の時間しかありませんでした。先生に無理をいって、朝6時30から1時間半、授業を行い、TOEFL・GMATの勉強をしました。しかし、30歳を過ぎて勉強を開始すると、単語が全く頭に入っていきませんでした。社会人になってから、考えることばかりになり、暗記するという作業を脳に訓練していなかったため、単純に覚えることがものすごく苦手になっていました。また、業務をやりながら英語の勉強を続けているものの、テストの点数に結びつかない日々が続き、非常にあせっていました。そんな中、英語の勉強に専念するため、アメフトを引退し、会社を休職することにし、1日10時間以上、英語の勉強を自分に課しました。しかしながら、最終的になかなか点数に結びつかなかったのを今でも覚えています。この時ほど、本当に若いうちにもっと英語を勉強しておけばよかったと後悔しことはありませんでした。

7.MBA入学と真のコミュニケーション体験
なんとかMBA入試に合格し、結婚もして家族でアメリカに行くことになりました。しかし、ここから本当の苦労が待っていました。ここまで座学での勉強ばかりで、コミュニケーションの練習はほとんどしていませでした。MBA入学後、最初のあいさつから始まり、すべての発言局面が緊張の連続でした。授業でも、自分がコンサルティング時代に経験したことが多く、クラスメイト等に言いたいことが山ほどありましたが、口から出てくるのは、その10分の1にも満たない内容でした。 その結果、クラスメイトに対して貢献できていない自分がいて、本当に悔しくも歯がゆい思いの連続でした。 また、各国から集まるクラスメイトたちと話が出来ないことには、お互いに理解が深まりません。授業だけでなく日々の生活でも、自分の考えやポリシーなどを各国の人間に伝えることの手段として、英語でのコミュニケーションがいかに大切かを痛感しました。 そして、それができない自分に本当に悔しい思いをしました。このMBA課程の生活では、英語は正にコミュニケーションや勉強のツールでしかなかったのです。 それまで、"英語"を身につけることを目的に勉強してきた自分にとって、ツールとして、本当の意味での必要性を感じた経験でした。

8.これから英語の習得を目指す方へ
私が体験した過程は、皆さんも同じように辿るのではないでしょうか? 大学受験までは、英語の点数をとることが目的かもしれませんが、最後にコミュニケーションのツールであることに気づいて壁にあたるのではないでしょうか? 
これからの国際社会では、相手の考え方や背景、そして文化までも理解するためのコミュニケーションツールとして英語や他の言語が必要になってくると思います。
私の経験を繰り返さないためにも、若い人には目的意識をクリアにして、英語を身につけた後で何をするのかを明確にイメージすることをお勧めします。また、できるだけ若い時から英語学習に取り組み、継続的に能力を磨いておくのも必要かと思います。
継続は力なりですので、皆さん頑張ってください。