« だって人生を素敵にするための趣味だから | 「脳の秘密 未来はどう変わる」(7月11日放送) »
パスポートさえ持っていない人がいますよね。 私はすごくもったいないと思うんです
高麗 正子(Masako Korai)さん (ハミルトンアイランド、ジャパニーズゲストサービス・スーパーバイザー)
東京出身。 現在オーストラリア、グレートバリアリーフの中心にあるハミルトンアイランドにて
ジャパニーズゲストサービス・スーパーバイザーとして活躍中
何事も新しい事にチャレンジする事が好きで、小・中学生の頃はピアノ、水泳、油絵、書道、塾とたくさんの習い事をしていました。
特に、中学校ではバスケ部のキャプテンを務め、忙しい日々を送っていました。
初めての海外は、小学5年生の時で、家族旅行で行ったオーストラリアです。 それからオーストラリアが大好きになり、
中学生の夏休みには3週間の短期留学プログラムに参加しました。 現地ののびのびした環境や、学生の生き生きとしている姿、
中学校から科目選択ができて、やりたいことや自分の特技をのばすことができるゆとり教育を体験し、
「海外の学校で学びたい!」と強く志願して、高校からオーストラリアの首都キャンベラに留学しました。
~ 現地の学校に入学して ~
まず、自分の英語力のなさにびっくりしました。 中学での英語の成績は良いほうでしたが、中学で3年間も勉強したのに、
最初は話しかけられても「???」でした。 よく、日本人は文法に強いといいますが、逆に言うと、
リスニングや会話が全くできないのです。他の英語圏でない先進国と比べても、「日本人は英語が話せない」というイメージが
付いています。 もっと日本にいる間に、使える英語を勉強しておけば良かったと後悔しましたが、後悔先に立たず。
それから必死に勉強しました。
1年間、ESL(English as Second Language) という英語を母国語としない人達の為のクラスで勉強をしました。
わからない単語はまずノートに書きとめておいて、後で人に聞くか、調べるようにしていました。 学校は色々な国籍の人達がいて、
異なる文化に触れることができ、とても刺激的でした。 2年目からは現地の高校生と同じ内容を勉強しはじめ、
高校卒業後はオーストラリアの首都にあるキャンベラ大学に進学しました。 もともと旅行が大好きな私は、
将来、観光業につきたいと観光マネジメント学科に入学。
4年間の大学生活は楽しい事ばかりではなく、辛く大変な日々も多々ありましたが、
あの時の生活を乗り越えていなければ、今の私はないと思っています。
~ 何故英語を学ぶことが必要なの?~
「時々、日本から一度も出たことがない人や、パスポートさえ持っていない人がいますよね。 私はすごくもったいないと思うんです」
私は幸運にも、学生時代の半分をオーストラリアで過ごし、大好きなオーストラリアと日本の架け橋になれたらと、
今の仕事を選択しました。 私が現在住んでいる所はグレートバリアリーフの中心に位置する、一周16キロの離島です。
空気がとても澄んでいて、青い空、それよりも青い海、そしてフレンドリーなオージー(オーストラリア人)達が住んでいます。
この島も含め、「もっとオーストラリアの良さを日本人に知ってもらいたい!」「たくさんの自然を肌で感じてもらいたい!」と思い、
この仕事を選びました。 現在、ホテルのフロント業務をはじめ、日本人のお客様のお迎えや、島内観光(ガイド業務)、
通訳や翻訳業務をこなしています。 島は個人の私有地で、島内が1つのテーマパークのように繋がっているので、
日本人のお客様に変わって島内のホテルやレストラン、ツアー会社と英語でコミュニケーションをしています。
お客様から数多くのコメントを頂戴しますが、大半のお客様は
「英語がわからなくてもフレンドリーなオージー達がやさしく接してくれた。」「日本人スタッフがいたから安心して旅行が楽しめた。」
「しかし、今度来るときは現地の言葉で自らコミュニケーションができるようになりたい。」とおっしゃって下さいます。
移民の国、オーストラリアでは、本当に色々な国の人との出会いがあります。 そこから異文化を学び、視野が広がり、
日本に閉じこもっていたらできなかったであろう新たな発見をたくさんすることができます。
日本の人口、約1億2700万人のうち、2008年に観光、ビジネス、その他の目的で海外に行った人は、1500万人を越えています。
最近では、ワーキングホリデー制度も充実し、ワーキングホリデーでオーストラリアへ渡航する青年は、
全ワーキングホリデー制度利用者の半数以上、年間1万人以上もいるそうです。 私自身も大学卒業後、しばらく日本で働き、再度ワーキングホリデービザで渡豪しました。
世界中の国と友好関係を築き、好影響を与えている日本に生まれ、日本人として育ったことをとても誇りに思っています。
そんな日本人だからこそ、皆様にも世界共通語の英語、"使える英語"を学び、そこから外にも目を向け、色々なことを身につけていってほしいと思っています。
人生何事もタイミングだと私は思います。
どこで何をしていようが、英語を勉強したい、もっと身につけたいと思った時が、最初の一歩ではないでしょうか?
その気持ちを大切にし、今の自分にできることを実行して、そこから可能性を広げていってほしいと思います。
真の国際人として社会で生きていく感覚
畑山理沙(Risa Hatayama)さん (バンクオブアメリカ・メリルリンチ/ニューヨーク本社)
高知生まれ、大阪育ち。
高校卒業後、オハイオ州立大学であるBowling Green State University に入学。
卒業後、日本へ帰国し、米系会計監査法人アーンストアンドヤングにて外資系証券会社の会計監査担当。
その後、メリルリンチ日本証券に転職。 2008年4月からメリルリンチニューヨーク本社へ籍を置く。
(2009年1月より合併の為バンクオブアメリカ・メリルリンチ)
【英語=嫌い】
私の中学・高校時代を知っている友達は、まさか私がアメリカの大学に行き、英語を使う職業に付き、そして今ではアメリカに住んでいるなんて誰が想像したことでしょう。 そう、英語は全く得意ではありませんでした。 覚えても覚えても、覚えきれない単語の数々、どんどん難しくなっていく文法、まねの出来ない発音など。 はっきり言ってしまえば、私にとって英語は全教科の中でも、大嫌いな科目でした。
高校2年生の夏休み、1ヶ月間、アメリカのシアトルでホームステイをするというプログラムがありました。 英語嫌いの私にとって、アメリカに行くことは全く興味ありませんでした。 それよりも、友達と1ヶ月も一緒に旅行ができるというところに惹かれた私は、英会話の心配など毛頭なく、どうにか親を説得してそのプログラムに参加しました。 そこで私の人生を変える衝撃的な出来事があるなんて思いもせずに…
【人生の転機】
シアトルでは生徒に一人ずつホストファミリーがつきました。 私の家族はマミー、ダディー、当時12歳のお兄ちゃん、9歳の妹の4人家族でした。 会ったその日から、子供たちとは意気投合し、マミーもダディーも優しくて、気楽なとっても居心地がよいファミリーでした。 でも、そこには大きな難題があったのです! 家族の言ってることが一切わからない、自分の言いたいことが一言も言えないのです。 そう、私たちは一切コミュニケーションがとれなかったのです。 とりあえず、ジェスチャーと笑顔で毎日を乗り切っていました。 それでも1ヶ月間、本当に楽しい時間を過ごすことができたため、私の帰国の際には5人とも泣き続けていました。 その時に、あー、この人たちに自分の胸の中の感謝の気持ちを伝えられたら、どんなにいいだろうと思ったのです。 そして帰国後、私はあの素晴らしい家族ともっと沢山いろんなことを話せるように、英語を習得しようと心に決めたのでした。
【アメリカ留学】
高校2年生の2学期、日本に帰国した私は、周りが国内の大学受験を本格的に始めようとしている中、アメリカの大学に行くことを決めました。 それから苦手だった英語を一生懸命勉強して、高校卒業後にオハイオ州のボーリンググリーン州立大学に入学しました。 渡米した当初は思っていた以上に英語がしゃべれず、聞き取れず、毎日、大学の授業に行っては途方に暮れていました。 いつも授業の後、教授の後ろをついて行って、宿題は何か、どこを重点に勉強したらいいかなど、個人指導をお願いする始末。 しかも片言の英語でです。
しかし、そんな私でも、2年生を過ぎた頃には学生生活をエンジョイできるほどまでに英語が上達してきました。 一緒に住んでいたアメリカ人のルームメイトや寮の周りの友達のおかげで、日常会話やアメリカで暮らすという常識を、この時期にたくさん学びました。 大学では会計学を専攻し、一生のうち、もうないであろうというくらい勉強しました。 毎日図書館に通っては夜中まで勉強する平日、そして週末はおもいっきりパーティに参加するという、なんとも充実した4年間。 私の人生、価値観を形成するにあたって、本当に大切な大学生活でした。 卒業式にはシアトルのホストファミリーもお祝いに来てくれて、念願の高校生の頃に話せなかった話をたくさんすることができました。
【真の国際人】
大学卒業後は日本に戻り、会計監査法人で働いた後、今のメリルリンチに転職しました。 日本にいるのに、とてもグローバルな環境で、ミーティングやメールはほとんどすべて英語です。 女性であることや社会経験の少なさや多さなどは全く関係なく、社員にたくさんのチャンスを与えてくれるすばらしい会社でした。
私はここで、自分の意見を公共の場ではっきり述べる自信を身につけることができました。 日本のメリルリンチで働いているうちに、ぜひ本社のあるニューヨークで本場の金融を見てみたいと思う気持ちが強くなり、上司に相談したところ、アメリカの本社に働きかけてくれて、2008年4月から念願のニューヨーク勤務が始まりました。 私は今、ニューヨークの金融街、ウォールストリートに近い、ワールドファイナンシャルセンターで、世界各国から集まった社員らと働いています。 私の同僚たちは、アメリカ、ヨーロッパ、インド、ジャマイカ、中国、プエルトリコ、メキシコ、ロシアなど、本当に多国籍です。 そしてこの多国籍な会社の共通語は英語です。 いろんなアクセントのついた英語がオフィス中に飛び交っています。 文化、宗教、教育環境など、全く異なる私たちを結びつけ、同僚としての強い絆を築けているのは英語なのです。 私はニューヨーク転勤後に改めて、高校生のあの時期にアメリカの大学に行くことを決意して、本当に良かったなと思いました。 今こうして英語を話せ、国際人として働けていることも、高校時代に英語でのコミュニケーションの大切さを痛感したおかげだと思います。
【最後に】
今、英語を勉強している学生の皆さんに知っておいてもらいたいことは、英語は単なる受験教科のひとつではないということです。 文法や単語など、覚えることもたくさんありますが、英語を習得するということは、それ以上のものをあなたの人生にもたらしてくれます。 自分の価値観が大きく変わり、自分の可能性がどんどん広がり、真の国際人として社会で生きていく感覚は、本当にすばらしいものですよ。
饒舌である必要はない、ただ意思を伝えるだけでいい
AIAI(あいあい)さん (映像製作)
学習院大学法学部政治学科卒業
チャップマン大学大学院映画製作専攻修了(MFA)
1.仕事について
私は、日本のテレビ番組制作会社でプロデューサーのアシスタントをしていました。仕事の内容は、リサーチや取材、予算やスケジュールの管理、ロケ準備、契約書類の作成など、制作全般を通じて多岐にわたります。アメリカで映画製作の勉強をしましたが、日本ではテレビ業界の求人が多かったのでNHKやテレビ朝日などの番組に携わってきました。事前に想像していたより英語を使用する仕事はなく、忘れてしまうのではないか不安で、海外取材などの機会に自分の英語力を確認しては、一喜一憂していました。、情報番組を担当することが多かったので、英語の文書を読む機会を積極的に持つようにし、せめて感覚だけは保つ努力をしました。仕事にはやりがいを感じていましたが、もっと英語を使いたいという気持ちは強くなるばかりでした。
私がアメリカから帰国して、そろそろ10年がたとうとしています。帰国してすぐに、アメリカ映画「ロスト・イン・トランスレーション」のスタッフとして働いた頃は、まだ日本のエンタテインメント業界は海外とのネットワークが確立していませんでした。しかし、この10年弱の間に、海外との関係は深まっています。例えば、日本国内で撮影される外国映画が増えたり、法律や政策によって二次使用の市場が拡大したり。10年前にアメリカで学んだことが、ようやく日本で実現し始めたと感じています。以前は、アメリカの常識が日本の常識になるのに20年かかると言われていましたが、今では10年もかからないのですね。
これから制作の現場や市場が海外へ広がるにつれて、日本のエンタテインメント業界における英語の有用性は高まると信じて、私は、未来に向けえ新たな勉強を始めたところです。というわけで、現在一時休業中です。
2.英語が話せるようになるまで
①現在の私
アメリカを離れて10年近いので、とっさの会話などは少し心もとなくなっていることは否定できません。この点は、努力の必要性を感じます。しかし、一度身に付けた「読む力」は容易には失われないように思います。英語が読めるということはありがたいことで、世の中の論文・文献を含めてあらゆる情報は、古いことも新しいこともほとんど英語で書かれています。英語が読めれば、世界で何が起きているのかをいち早く知ることも可能です。
私が、英語を読むときに気を付けていることは、一度読んだだけで理解したと思わず、同じ情報を別の視点で書いている物を読み、同時に日本語でも同じ情報を読み、相違点を見つけることです。例えば、小説なら原書と日本語訳を数冊読み比べると、訳者によって訳し方が異なることに気づきます。そこで、なぜ違うのかを同義語辞典、英和辞典、広辞苑などを使って調べてみるのです。同じように、ニュースなら、それが海外ではどのように伝えられているかを各国のウェブサイトで検索してみます。日本の情報だけではわからない部分や、日本人とは違う視点を知ることができ、世界についての考察を深めることができます。
このように今も意識的に英語を学び続けていますが、実はそうした習慣は大学受験の勉強で身に付けたものでした。思い出せば、受験は精神的にも体力的にも辛いものでしたが、英語と真剣に向き合えた貴重な経験でした。
②日本の大学へ
私は、幼稚園にあがる頃に英語教室に通い始め、早い教育を受ける機会に恵まれました。しかし、同年代の友達よりも少し話せるということに慢心して、自分から積極的に学ぼうとはしませんでした。
高校3年生になって進路を決めなければならなくなったとき、「アメリカに行きたい」と強く思いました。アメリカの映画と文学が特に好きで、映画の知識と読書量は誰にも負けないと自負していました。私たちは、戦後もっとも人数の多い世代で、バブル崩壊後の就職氷河期という時代でした。社会が内向きのムードで溢れていたから、映画で見ていた「こことは違う世界」に憧れたのかもしれません。「いつか海の向こうの世界を見に行くんだ」という心ひとつで、受験勉強を始めました。一日何時間も英語の勉強をする毎日を、一年間も続ける経験は、もう二度とないでしょう。仕事や生活のことを考えずに勉強だけに没頭できるのは、親の支援が得られる若い時だけだとつくづく思います。そしてそれは、とても幸運なことだとも思います。
大学生になってからは、週に一度アメリカ人の先生に英会話のレッスンを受けていました。受験勉強で覚えた英語の正しい発音や場面ごとの使い方を習い、また新しく覚えなおすというサイクルを繰り返しました。大学卒業後にアメリカ留学して、特に苦労もせずにすんなりと英語で会話ができ、最初の授業から理解できたのは、覚えたことを、実際に使ってみるというサイクルを根気よく続けたおかげだと思います。
③アメリカ留学
大学院では、英語を学ぶのではなく、英語で映画のことを学んでいることが楽しくて仕方ありませんでした。二年間の大学院生活では、学生映画にできるだけ参加し、自分でも友人たちと共同で数本の映画を製作しました。カリフォルニアという土地柄か、映画学部には、アメリカ人だけでなく中南米やアジアからの留学生が多数在籍していました。私は、メキシコ、エクアドル、ブラジル、韓国、台湾、シンガポール、タイなどからやってきた若者たちと親しくなり、彼らの映画に参加しました。今はみんな母国に帰り、散り散りになってしまいましたが、映画作りの夢の下に、それぞれの国のアクセントで、思い思い好きなことを話し、笑い過ごしたあの頃を懐かしく思い出します。英語が下手だったり、言葉を知らなかったり、発音が悪かったりということは関係ありませんでした。映画が好きで、心が熱いことが、なによりも大事にされたことでした。
私が映画を製作した時のことをお話します。撮影を始める前には、キャストのオーディションをして、撮影クルーを集めなければなりません。アメリカには映画専門の求人誌があり、そこに募集をかけて人を集めます。私は、撮影クルーは学校の友人たちにお願いしましたが、キャストはプロの役者を募集しました。すると、無報酬で過酷なスケジュールの学生映画なのに、年齢、性別を問わず、チャンスを求めて何百人も応募して来ました。私は、彼らの真剣さに驚き、この情熱がアメリカのエンタテインメント業界を支えているのだと、目の当たりにした思いでした。
私はプロデューサーという立場ですから、何十人というキャストやクルーを率いなければなりません。彼らの目は私に注がれていて、私はみんなに、「私と監督の作りたい映画はこういう物で、あなたにはこれをして欲しい、あれはして欲しくない」ということをはっきりと伝え、違っていたら正し、危機にはその場で適切な判断をしなければなりません。そんなときは、授業ですばらしい議論をしたり、優秀なレポートを書いたりした英語力は全く役に立ちませんでした。最も役に立ったのは、明確な意思を持って、適格な判断を伝える、シンプルな言葉ばかりでした。私が撮影を終えることができたのは、間違っても、悩んでも、苦しんでも、じっと私の次の言葉を待ってくれたキャストやクルーたちのおかげだと思います。饒舌である必要はない、ただ意思を伝えるだけでいい。生きていくために本当に必要な言葉は案外少ないのかもしれません。英語に限った事ではありませんが、言葉は、感情や理性と結びついて初めて自分のものとなり、他人の心に伝わるのだと知りました。もちろん、これまで覚えてきた英語は、レポートや企画書を書くときには大いに役に立ちました。卒業論文の作品で、私の書いた企画書を読んだ担当教授が目を潤ませたときは、ずいぶん自信がついたものです。
修了後は、テレビのインタビューや翻訳を請け負ったり、アメリカのドラマを日本にライセンスする手伝いをしていました。日本に帰国するかどうか悩みましたが、結局、帰国を選び現在に至ります。3年間のアメリカ留学でしたが、24時間を英語で過ごすという環境は、英語が話せるようになるために必要な時間だったと思います。
3.英語をこれから学ぶ人たちへ
文章を読むのにもっとも必要なのは読解力です。母国語である日本語をしっかり見に付けて感受性を磨いて下さい。
会話に必要なのは、相手に対する興味と伝えたい心です。考えや主張と言ってもいいでしょう。
他人に興味を持って下さい。そしてまず自立を目指して下さい。
それから、忘れがちですが身体も鍛えてください。自律・自尊の自立した人生を送るには、苦痛に耐えうる体力が必要です。
英語が話せたら、どこへだって行けるって思わない?私は、そう信じて、まだまだ頑張ります。
子供って無限大の可能性をもっているんですね
吉川 由美江 (Yumie Yoshikawa) さん (ピアノ講師、演奏家、作曲家)
東京-中野区生まれ、所沢育ち。 6人兄妹の次女、3番目に生まれる。6歳からクラシックピアノを習う。
東京音楽大学入学、ミューズ音楽院卒業。 プロ・バンド=元ZELDA*のギターリスト石原富紀江の結成したバンド「リップ・スティックス」のメンバーとして、原宿ルイード*で約1年間毎月ライブ活動等を行う。 脱退後、クラシックピアノに再び熱を入れる。
日本では、松本佳子と山本矩子(巨匠=松浦豊明*の弟子)に師事。
アメリカでは、オハイオ州ウィルミントン大学のジム・ロバート・ハスキンス教授に師事。
1999年9月に渡米。渡米後直ぐにオハイオ州シンシナティでプライベートで何人かの生徒にピアノを教え始める。
2年後にケンタッキー州へ移る。ケンタッキー州レキシントン市のイタリアンレストランで数年ピアノ演奏者を務め、
クラシック以外のピアノ曲やジャズ等を学んだ。
その頃、徐々に口コミで生徒が増えた為にレストランの演奏者を辞め、現在はピアノ講師が本業。
自宅でピアノ教室を運営する傍ら、更なる英語力向上のため大学でクラスを受講する。
コンクールでは教え子たちを見守り、多くの入賞者を育成/指導中。
そんな私も、少し前までは、英語がこんなに必要になるとは想像もしていませんでした。
子供の時には、一切英語を習ってこなかったため、後悔は好きではないのですが、「もし、ちゃんとした英語教育を子供のうちから受けていたら」とか、「日本の英語教育がもっと良かったら」とか、そのようなことが常に頭を駆け巡ります。学校の英語の授業も殆ど赤点ぎりぎりで、そこまで英語という科目を重要に感じていませんでした。英語に対する重要性の意識が日本は他の国と比べて低いと感じます。それはアメリカで出逢った日本人以外の人種と接してると分かります。
レキシントンにはトヨタの工場もあり、小都市の割りに日系企業が結構多いため、日本からの駐在員の子供達をよく指導していますが、子供の英語習得の早さには、驚き以上に羨ましささえ感じます。子供って無限大の可能性をもっているんですね。しかし、誰もがこういった幼少期に、海外に住めるチャンスに恵まれる訳ではありません。
では、出来るだけ若いうちに、つまり、幼少期に英語教室などに通いさえすれば良いかというと、答えはYES and NOです。もちろん、若い時期から始めるのは良いことなのですが、きちんとした指導を心掛けているところでなければ意味が無いと思います。
英語(言葉)とピアノ(音楽)には共通する部分が多いです。それは恐らく音楽も言葉と同じく一種のコミュニケーション手段であるからだと思います。
英語やピアノに関して大人になってからよく聞くのですが、
「折角子供の頃に習ってたのに、今思うとあまり良い指導を受けれていなかった。良い指導を受けられていたら人生もっと違っていた」とか、「うちの親がもっとよく調べて考えてくれていたら良かったのに」という後悔のお話です。
日本の大学で英文科を卒業した人でさえも、こちらへ来て苦労している方も少なくありません。それは恐らく総合的なバランスの良い学習内容で学べていなかったことに原因があるのではないかと思います。
例えば、私の世代では、多くの英語教育機関での学習内容の中心が"書くこと"に集中していたということはよく耳にします。その反動か、近年では耳に重点を置いた教材が注目されたり、会話主体といった教室も増えています。
しかし、実際にアメリカに住んでいると、話す、読む、書く、聞くの全てが不可欠です。この事は、ご自身の母国語で例えて考えてみると想像が付くと思います。ピアノにも共通していて、弾けるだけだったり、耳のみ集中して鍛えたりする学習法も見かけますが本当にそれで良いのでしょうか。
ここで、数ヶ月前に、日本で師事した山本矩子先生から頂いた、お手紙を引用いたします。
"言葉と同じで本当に知るには、多方面を知らなければなりません。 会話が出来て、読めて、聞けて、書けなければ文盲のようなものでしょう。 楽器が弾けて、譜が読めて、書くことが出来なければ、浅い知識に過ぎません。 程度は弾く程でなくとも、ソルフェージュ(歌詞無しで楽譜を唄う、そして耳で聞いた音譜を書くこと)の四つ=話す、読む、書く、聞く、は大変重要なことです。"
以上の事からピアノや英語(言葉)を習うのなら、やはり総合的な学習内容で学ぶのが理想です。
そのことから、ピアノも英語も最初に門を叩く場所が非常に重要になってきます。
私は地元の音楽講師協会の先生方から、「導入期&小さい子供の専門家!この辺でベストだ!」(恐縮ですが)といった評価を頂いているので、どこかで既にピアノを習っていたけど、上達が思うようにいかないと悩んでいる生徒が私のところへ回されて来たりします。
それらの生徒達には、可哀想に思う場合が多いのです。それは上達出来て無い原因が明らかに子供の才能うんぬんの問題ではないからです。勿論、3~6歳前後の子供の進度には大きな個人差があって、中にはゆっくりとしたペースの子もいて当然なのですが、それにしても上達どころか導入期に徹底されるべき最低限の総合的基礎が、ろくに指導されてない状態です。悪い癖を付けるのは簡単ですが、その癖を直すのには時間も掛かり厄介です。
先ず揃って皆譜読みが苦手=指導されて無い=出来ていないのです。音符に講師の字でドレミ/CDEのカナが書いてある状態で音符も作曲家の指示も読めてないのに、結構難しい曲をやらせてる形跡があります。ソルフェージュ*の指導は殆ど無いです。保護者の方も何も気付かなかったのか、ただちょっと弾けるようになってるから安心してしまったのかもしれませんが講師と生徒&保護者間のコミュニケーション不足が伺えます。アメリカは日本より、コミュニケーションに重点を置いてます。指導者と生徒と保護者の良い関係が生徒の成功の鍵ともなるので、誤解が生じないようお互いを理解+尊敬するべく歩み寄る事も大切に思います。
先ずは良い教室/講師探しからです。
ここで妥協するかしないかで本人の将来が大きく左右することにもなります。教室/講師とは、ある意味「お医者さんのようなもの」です。そう考えると値段と距離と質の全てを求めるのは難しいです。しかし一番大切なのは「質」です。
それと保護者の方の中によく見受けるのが、「うちの子には才能が無い」といった誤解です。大抵の才能は環境と大いに関ってきます。本人にいくら才能があったとしても良い環境に恵まれなければ開花出来ないと思うのです。私が思うに、良い環境とそれなりの良い指導者に習うという条件が整うと、才能に恵まれなかったとしてもそれなりのレベルまで到達出来るのです。(それも一つの才能であると思いますが) 幼少期の子供の可能性には計り知れないものがあります。どんな子供もそのような可能性を持ってます。ですから、この時期の重要さは認識しておかなければなりません。
また、保護者のサポートがいかに大切かに気付いていない方もいらっしゃる様です。これからの時代は、指導者側からも気付かせてあげるのが良いのかもしれません。 子供には「欲」があまり無いので、講師側のみに任せっきりでは興味を持続させるのが難しいです。ピアノならコンサートに連れて行ったり音楽やピアノがもっと出来るようになりたいと思わせる工夫をすることです。英語なら、洋画を見に行ったりして、英語が出来ると凄いなとか、ステキだなとか英語を役立てる環境を配慮してみることです。「好きな気持ち」や「興味」以上のやる気のエッセンスはありません!
ある保護者の方の中には、子供に「練習しろ/勉強しろ」とさえ言っていれば良いと思われてる方もいます。そうではなく「子供の頑張ってることに関心を見せるべきです」 子供を上から目線でなく、子供が頑張ってることに興味を寄せ、一緒になって頑張るくらいの姿勢が大切です。2009年度バン・クライバーン国際ピアノコンクールで見事に全盲で日本人初優勝をして話題になった、辻井伸行さんのお母様の子育てについてのメールセミナーにも多くのヒントが書かれてます。
(辻井いつ子の子育て広場:http://kosodate-hiroba.net/)
保護者の方が一緒に練習や勉強に付き合ってあげる事をお勧めします。個人差があって、子供によっては中学生くらいまでは必要かもしれません。後できっと子供から感謝される事と思います。
〝決して自分の子供より出来る子と比べないこと!比べるべきなのは本人自身とです!"
その子なりのペースがあります。進度が遅いとか粗探しはせず、良い部分を見てどんどん伸ばしていくべきです。保護者の方の影響は子供に大きいのです。そんな大きな存在に日々憂鬱な気持ちで横に居られたら、子供にも当然良くありません。又、実際上達していても"目に見えない上達"というのもあるので勝手に決め付けては大変です。
最近の保護者の方にありがちなのが、「待つこと」がちゃんと出来ないのです。いくら良い指導者に習えたとしても、それだけでは本領を発揮出来ません。『講師-生徒-保護者』の、この3つがちゃんと機能して、はじめて本領を発揮するものなのです。
日本の根性論も良いですが、あまり長時間の辛い練習/勉強に目標を置かないで、「効率の良さ」=「いかに時間を掛けずに出来るようにするか」が理想です。又、「お金が勿体無いからやめろ」と言うのは、ある意味で逆にも取れます。折角今まで時間とお金を掛けて習得してきたことを、全て無駄にすることになるからです。少しずつでも続けてれば、全く止めてしまうよりは忘れることを防げます。そして数年後に、いきなり自発的に練習に励むようになるということも少なくないのです。そう、才能もいつ開花するか分かりません!
〝止めることはいつでも簡単に出来ます!『継続は力成り』で続けることに意味があるのです"
最も残念に思うのは、保護者の勝手で子供に習わせておいて、保護者の都合でやめさせるケースです。特に英語やピアノで、これは意外と多いのです。子供が可哀想です。
私は日本で義務教育で6年間英語の授業を受けてきましたが、渡米直後は英語が全く駄目でした。
しかし人生は1度きりです。なので「諦めるより少しでもやってみよう」と自分に思い聞かせて現在までやってきたので、英語が多少は出来るようになってきてます。アメリカの生活で大変だと感じることもありますが、今回このエッセイを書くことで改めて考えてみると、大変でもこうしてアメリカで英語が学べていける環境に良かったと感じます。
英語がもし全く出来なかったら、全米音楽指導者協会/MTNA=Music Teachers National Associationの会員にもなれなかったし、折角アメリカにいながら日本以外の文化を知ることも出来ていなかったと思うのです。多少出来れば色んな人種と出逢い、それぞれの国で流行ってる音楽や民族音楽などが知れたり、自分の音楽への影響も大きいです。
私の通う大学の英語のチューターの中にハンガリー出身の人がいて、彼女とハンガリーのソルフェージュ教育の事情やリスト、バルトークやコダーイ(ハンガリーを代表する作曲家)の話で盛り上がったり、またそこに新たな発見や学びもあります。特に私が自分の生徒にコンクールでハンガリーの作曲家の曲を弾かせたと伝えると、大喜びします。
音楽は世界中の人々と分かり合えるものなのです。なので日本語のみの情報に頼るのは、やはり狭い世界で偏ってしまうと思うのです。特にピアノを教える立場の人は、英語は最低ある程度出来た方が良いと感じます。それは、教える側は常に広く色々と知っていることが不可欠になるからです。英語が出来なくても日本語訳されてる専門書に頼れるからと安心していませか?
実際にアメリカで良書とされてる本でも日本語訳されてない物が結構あります。ピアノの導入期の教材も最もポピュラーな物が日本語版でなかったりするのです。これはピアノに限らず全ての分野においても同じことが言えるのではないでしょうか。
そう考えると、何か極めたい方や専門的な勉強をされてる方はやはり英語が出来た方が知識の幅が広がると思います。渡米当初、未だTVやニュースを理解出来なかったのですが、徐々に分かるようになってきて日本のニュースや考え方、情報等とこちらでの情報とにズレや温度差を感じる事もあります。面白いことにアメリカ人以外の人種と話すと、またそこに更にズレがある何てことも。でもそれを知ることが出来るのも英語を通してコミュニケーションが出来るからなのです。
私は自分の生徒達の演奏をYoutubeにアップしてますので、各国の方々から、色々なメッセージをいただいています。 ドイツ、フランス、アメリカ、イタリア、アイルランドetc. のピアノ講師をはじめ、世界中の方々と情報交換をしています。
そして小林愛美ちゃん*のスポンサーからもコメントを頂いています。
"Are you specializing in very young children? You get incredible results!!!"
Byパトリックさん Fromフランス
勿論、Youtubeではどの国の方とも英語でやり取りしています。
*「小林愛実ちゃん」は日本が誇る若き天才少女ピアニストで、徐々に世界中に人気が広まってます。
(参照:kobayashiaimi.pdf)
英語の凄い所は、ほぼ全世界の人々とコミュニケーションが可能な事です。
そんな私の現在の目標は、仕事やあらゆる面で使える英語力のレベルアップです。そうしなければこれ以上世界が広がらないと考えています。
仕事上、地元オーケストラのコンサートのレセプションに招かれ、世界的に活躍するピアニストと会える機会が時々あるのですが、そんな時、「ああ、もっと流暢に気の利いた話が出来たら、どんなに有意義な会話をすることが出来るのだろう」と落ち込んだりします。アメリカ人の生徒に対しても、英語がもっと出来たら、更に良い例え話や助言をたくさん出来るだろうにと申し訳なく思ったりもします。しかし、私よりずっと英語が堪能でも生かせて無い方もいます。
やはり語学力以前に、一人の人間として色々経験して自分を磨く事も大切だからなのかも知れません。そして海外を知るには日本をもっと知らないといけません。日本人以外の人から聞かれるのは先ず「日本の事」なのです。そうです、英語を学ぶことは祖国をもっと知ることが出来るきっかけにもなるのです。
最後に私からのアドバイスとして、
英語も音楽と同様に、出来るだけ総合的な学習内容でバランスよく学ぶ事を念頭に置き、独学よりも良い学校や講師から習う事をお勧め致します。折角、時間とお金を掛けるのですから後悔の無いように頑張って下さい!大人であっても今からでも決して遅くありません!
[参照]
*ZELDA
*原宿ルイード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AE%BFRUIDO
*松浦豊明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E8%B1%8A%E6%98%8E
*ソルフェージュ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5
恥ずかしがらずに、積極的に英語環境に身を置き、色々と学んでいって欲しい
M. T. さん (ホテル 宿泊予約業務)
三重県出身。 中高一貫のカトリック校へ進学し、短大卒業後にアメリカ・カリフォルニア州へ留学。
Orange Coast Collegeにてホテルマネージメントを専攻。
帰国し、現在、新宿の某ホテルにて宿泊予約業務に従事している。
現在の職場で働くうえで、私が常に思うことがあります。
それは、『もっと英語を勉強しておけば良かった・・・』ということです。
初めて英語に触れたのは小学5年生の頃、近所で英語塾が開かれたのがきっかけです。 大学生の若い女の先生で、通っている子も、私も含め近所の子供達ばかり。 アルファベットを覚えたり、動物の単語を覚えたり、歌を歌ったり、塾というよりもむしろ、お稽古ごとに近い感じでしたが、とても楽しく、毎回、塾の日を楽しみに通っていました。
ある日、私の手元に一通の絵葉書が届きました。 先生が夏休みにアメリカ旅行に行き、その際、生徒一人ひとりに絵葉書を送ってくれたのです。 その写真を見た時、『私もアメリカに行ってみたい』と初めて思ったのでした。
その後しばらくして、先生は就職のために塾を閉鎖し、私は中学校へ進学しました。
私の通う中学校は中高一貫のカトリック校で、英語の先生はアメリカ人でした。 毎日英語の授業があり、公立で使う教科書は一切使わず、ブロック体よりも先に筆記体の練習から始まりました。 お陰で全国統一模試等ではそこそこの結果を残すことが出来た気がします。
中学2年の夏、母親に連れられて、ある新聞社主催の留学説明会に参加をしました。 そして夏休みの1ヶ月、オーストラリアでホームステイをすることになりました。 初めての一人旅行で、しかも海外だということもあり、はじめは不安な気持ちでいっぱいでしたが、いざ行ってみると、小さな子供が1人で来ているからという理由で、周りの人はみんな凄く優しく接してくれ、日本語が一切話せないホストファミリーも、一生懸命私とコミュニケーションを取ろうと、日本語の本を片手に、色々と話しかけてくれました。 とても楽しい毎日でした。
しかし、最終日のいざお別れという時に、ある大きな出来事が起こったのです。 オーストラリア滞在のお別れ会で、どうしても私は一緒に来ていた日本人の友達のそばにいたくて仕方がありませんでした。 せっかくホストファミリー総出でお祝いに来てくれていたのにです。 そして、ホストマザーに何かを話しかけられても、何を言っているのか全く理解できず、結局、日本から一緒に来ていた引率の方に通訳をしてもらうことになりました。
1ヶ月間、一緒に生活させてもらって、そんなことは初めてでした。 ですから、余計にその出来事が幼いながらにとてもショックで、その時初めて、『英語は一生懸命聞こうとしない限り、ただの雑音と同じなんだ』ということに気が付きました。
その後、月日が経ち、短大へ進み、普通に就職活動をしていた私に、ある日、また母親が、『留学でもすれば』と声をかけてくれたのでした。 その一言がきっかけとなって、一気に留学準備へと急展開することになりました。
短大を卒業してから2年後の春、準備資金もある程度貯まり、念願のアメリカへ留学することになりました。
最初は緊張し通しで、周りの人達と意志の疎通をはかることすらままならない状況でした。 でも、日本では味わう事の出来なかった文化に触れられ、大変充実した日々を送ることができました。
ホストファミリーは今まで何人も留学生を受け入れており、とても優しい老夫婦で、アメリカでの文化や過ごし方等を色々と教えてくれました。 ただ、その分、日本語もかなり知っていたため、あまり英語を使わなくても会話が成り立つという状況に、むしろ焦りを覚えたので、私は家を出ることに決めました。
アパート暮らしになり、アメリカに来て半年ほど経った頃、住んでいた部屋の電話が突然不通になり、1人で大家さんに相談しに行くことになりました。 当時の私は、ルームメイトに頼りっきりで、そういった大事な要件は全て任せっきりになっていました。 でも、それじゃあ渡米した意味がないのではと思い、勇気を出して、1人で管理事務所へ向かいました。 そして、自分なりに考え、一所懸命説明をしたつもりでしたが、相手は全く理解してくれず、『あなたの言っている事は全然わからないわ』と面と向かって言われ、あまりに悔しくて、1人泣きながら家に戻りました。 しばらくして、ルームメイトが帰ってきたので、その件を報告したところ、ここで負ける訳にはいかないのではないかと説得され、ルームメイトに同行してもらって、再度管理事務所へ向かいました。 今度は別の人が対応してくれ、私のつたない英語をちゃんと理解してくれて、ルームメイトがその前の担当の人の態度を抗議してくれたところ、とても申し訳なさそうに謝ってくれました。 この件で私は、更なる英語の勉強の大切さを気づかされました。 そして、いかに学校の先生や数日前までお世話になっていたホストファミリーが優しく接してくれていたかを改めて実感したのでした。
そうして、なんやかんやと、アメリカで5年ほど過ごし、日本に帰ることになったのです。
日本に帰ってきて、私はホテルに就職しました。 そこでまた、大きな挫折感を味わうことになったのです。
就職したての頃ですが、海外に英語でメールをしなければならなくなり、日常会話はある程度、不自由ないくらいの英語力はあったつもりでしたが、ビジネス英語を使うのは初めてでしたので、辞書を片手に必死に文章を構成しました。 そして、送信したところ、CC(複写機能で、同じ内容のメールを送信する機能)に入っていた営業の人から、思いっきりダメ出しをくらってしまいました。 『誰があんなメール送ったの? あなた? 何年留学してたんだっけ? 5年? 5年もいてその程度?』と。 今度から送る前にチェックを入れてもらう事となり、その件は落ち着きましたが、私にとっては大変屈辱的で、即刻ビジネスレターの書き方の本を買い込み、一から勉強をし直しました。
そして現在も同じ部署で働いています。 ようやく、何とか海外のゲストやエージェントともやり取りが出来るようにはなりましたが、過去に受けた屈辱は忘れないで、日々勉強をしていかなければいけないと心に留めながら働いています。
英語は使わないと、すぐに忘れてしまいます。 特に単語は、普段使っている言葉以外のものはなかなか口にも出てきません。
留学を決めた当時は、『映画を字幕無しで見られたらいいな~』くらいの軽い気持ちでしたが、現在でも、家でDVDを見るときなどは、極力、字幕を付けないで見るようにしています。 また、辞書は英英辞典を使うようにし、なるべく頭を英語脳にしようと、少しながらの努力をしているつもりです。 それでもやはり、昔とは違って、スムーズに英語が頭に入ってはきませんが。
『英語の発音が染み込むのは3歳くらいまで』と良く聞きますが、本当に若いうち、頭が柔らかいうちになるべく英語の環境に慣れておくことは非常に大切だと思います。
これからも世界の共用語として英語を使う機会はどんどん出てくるはずです。 これから勉強を始める人も、恥ずかしがらずに、積極的に英語環境に身を置き、色々と学んでいって欲しいと思います。
私も過去の経験を生かし、『日々努力』の精神で頑張っていきたいと思っています。