「隣の人の英語と人生」カテゴリーアーカイブ

英語を使う現場で活躍する人たちの声

英語学習にはワクワクすることが大切だと私は思います!

秋山 千佳(Chika Akiyama)さん (役員秘書

大阪府生まれ。 京都女子大学 英文学科卒業。 
レコード会社勤務を経て、大手新聞社にて役員秘書として活躍。 現在は育児に奮闘中。

<英語のイメージ>

私は留学したことがありません。 そして、ご多分に洩れず、勉強嫌いでした。 そんな普通の女のコが、自力で英会話を身に付けてきたのです。

  幼い頃から社交的で前向きな私にとって「英語=無限の世界」でした。 中学校で英語学習が始まった時は嬉しくて仕方ありませんでした。 どれだけ多くの人と出会い、新しい世界が見られるのだろう、と。 ポジティブな私は、将来自分が流暢に英語を話す姿を想像し、確信していたのですから若さは無敵です・・・。
残念ながら他の教科ではこんなワクワク感はありませんでした。 英語だけ。 ただ、このワクワクが20年も続いています。 続いているからこそ身に付いたのですから、やはり学習にはワクワクすることが大切だと実感しています。

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<普通の女のコの英語学習年表>

私の英語学習の履歴です。 英語は使うチャンスがないと面白くないというのがよく分かります。

中学 ・・・ 英語の授業が始まる。 基礎を始めたばかりのころ。
カナダ人講師がやって来て、モチベーションが上がる。
習ったばかりの簡単な、少ない単語でも会話が成立することに気づく。

高校 ・・・ 受験としての英語学習。
単語を大量に記憶したり、読解問題を解くばかりの面白くない授業。
両親に海外留学を懇願し、断られる。
この頃から、大学生になったら自由に海外へ行きたいと思うようになる。

大学 ・・・ 英文科へ入学。
英文学、英会話、文法、発音、英語学、様々な方向から英語を学ぶ。
両親に交換留学を懇願し、断られる。
自分は心配性の両親に頼っていては留学できないと感じ始める。

留学せずに留学しているみたいな環境を自分で作ろうと決意。

大手英会話スクールで受付のアルバイトをスタート。 
アルバイト先ではネイティブの講師たちと積極的に交流。
公私ともに交友関係を広げ、大学でもアルバイトでも英語漬けの毎日。
ある一定時間を超えた時、『英語脳』が出来始める。

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<アルバイト初日の自己紹介>

それなりに、教育課程で英語を学んで来た私にとって、英会話スクールでアルバイトを始めることには、全く不安もありませんでした。
初日を楽しみにしていて、外国人講師とも、簡単な挨拶くらいは出来ると思っていました。

ところがある講師が明るく近寄ってきて…

講師 「HI! 名前は? 新人スタッフ?」(英語で)
私 「はい、新人スタッフです。 大学生なのでアルバイトです。 名前は千佳です」

緊張しながらも、ここまでは良かったのです。

講師 「大学生? 何を専攻してるの?」
私 「・・・English・・・」

専攻は「英文学」なのに≪literature=文学≫が出てこないのです。

恥ずかしながら、それまで発音したことのない「literature」を発音できず、自分が何を専攻しているのか、そんな基本的なことさえ表現できなかったのです。
私は今まで何をやっていたんだろう…本当にショックでした。
自分のことくらい、英語でちゃんと言えるようにならなきゃ恥ずかしい。 英単語や文法を知っているだけでは意味がない。 
身の回りのことを、すべて英語に置き換えて考えるようにしようと、と思った、衝撃の初日でした。

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<学校の英語から使える英語に変わったとき>

英語が話せるきっかけとなったのは、前述のとおり大学での勉強と英会話スクールでのアルバイトです。 机で勉強して、体当たりで実践する生活が丸三年。 大学の休暇中はアルバイト代で海外旅行へ行き、五感で世界を旅して、様々なことを吸収して帰りました。

当時の私は、常にポケットサイズの辞書を持ち歩き、視界に入る物事を片っ端から英語に置き換え、分からなければ辞書をひきました。 そしてネイティブの友人との会話でその言葉を使う、そんな繰り返しをして楽しんでいました。

英語漬けの毎日は、決して辛くはなく、習得すればするだけ良いことづくしでした。

留学経験のない私が、帰国子女のクラスメイトより、英語のスピーチで高い成績をもらえたことは「留学できなくても頑張ればできるんだ」という達成感と充実感で胸が一杯になりました。

アルバイト先での仕事も英語でこなせるようになり、講師とのコミュニケーションがスムーズになっていきました。 受付業務以外にも、講師のスケジュール管理や、新人講師のトレーニングにも参加するようになりました。

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<帰国の飛行機での出会い>

私のように、貧弱なボキャブラリーでも、完璧な英語でなくても、よく使う英語から自然に習得していったので、簡単な英語でのコミュニケーションは問題なくなりました。
大学の休暇を利用して行った海外旅行では、アメリカから帰国する飛行機で隣に座っていたおじいさんと仲良しになりました。
医療関係のお仕事で来日されていたのですが、次回の来日で、私に通訳をしてほしいと依頼してきました。私の英語は医療関係の場で通用する高いレベルではないことを伝え、お断りしたのですが、日常会話で十分だからということで、結果3日間も手伝わせて頂きました。
本当に貴重な経験をさせてもらったおじいさんに、感謝してもしきれなかったです。
それ以来交流が続き、私の卒業、就職、結婚、出産、毎年のお誕生日におけるまで、人生のイベント毎に毎回手紙やメール、プレゼントなどで連絡をくれます。
年の離れた、私のアメリカの父であり、大切な友人の一人です。

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<英語のある生活>

英語を身に付けると、特に英語圏の海外旅行は、一段と楽しく、便利になります。 文化やマナーが違っていても、英語でやり取りができる限り、海外でも自由に行動することが出来るからです。 もしトラブルに遭ってしまっても、自分で対処できるので安心です。 ちなみに、タクシーでぼったくりにあうこともありません。

海外に行かなくても国内の日常生活だって変わりました。

例えば… 
・英語の夢を見る。 
・映画館で洋画の字幕を追いかけなくて済む。(全ての映画ではありませんが。) 
・外国人に道を聞かれたら正しく教えてあげられる。
・英語で書かれたホームページを閲覧できる。
・外国人の集うレストランやバー、クラブでも楽しくコミュニケーションができる。
・海外のアーティストのコンサートでMCが聞き取れる。
・英語の本やテレビが楽しめる。
・会社での英語の電話や文書、来客に対応できる。
・海外の文化に触れて、日本の良いところを再認識する。

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<英語から離れた生活のこれから>

育児に専念している今、徐々に英語漬けの生活から離れ、現在の私は『英語脳』ではありません。
しかし、一度『英語脳』になった経験をしている限り、ある一定時間、英語に触れると、また徐々に回復してきます。
最近は、一歳の娘と一緒に英語のテレビ番組を楽しんだり、英語の絵本を読んであげたりしています。
娘には、幼少期から英語の英才教育をするつもりはありませんが、私が一緒に楽しんで、彼女の隣でもう一度英語に取り組めば、きっと娘も英語好きになるだろうと思っています。
私より、もっと多くの科目にワクワクして、勉強好きになってくれたらいいな、なんて、ちょっと欲張りながら育児に奮闘中です。
まだよちよち歩きの娘と二人でいつか海外旅行を楽しめる日を夢見て。

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<最後に…>

最後に、英会話スクールの元スタッフの視点から。
私の勤務していた英会話スクールには、幼児から高齢者まで、年齢も職業も多種多様な生徒さんが在籍していました。
その中でも、飛ぶ鳥を落とす勢いであっと言う間に上達する生徒さんと、何年通ってもダメな生徒さんがいました。
その決定的な違いは、目の輝きと能動性です。
ダメな生徒さんには、「やらされている感」が漂っており、受動的でした。
上達する生徒さんは、レッスン前からレッスン後まで、目がキラキラしていて本当に楽しそうでした。
英語が話せるようになりたい、話せるようになったら○○がしたい、などの目標を持って楽しく頑張るとすぐに上達していきます。

やはり、英語学習にはワクワクすることが大切だと私は思います!

人生は、英語によってとても大きな世界に開けた

福原顕志さん (フリーランスTVディレクター)

カリフォルニア州オレンジ郡在住
1967年 広島県生まれ  神戸大学文学部心理学科卒
Central Washington University留学
NHK 報道番組部勤務
1996年渡米、以後フリーランスTVディレクター

私は現在、ロサンゼルス郊外で、テレビ番組のディレクター/コーディネーターをしています。日本のテレビ局からの依頼や自らの企画に基づいて、アメリカで日々取材をし、日本の視聴者に向けて情報を発信するのが仕事です。
主にドキュメンタリーや情報番組を制作しているので、日常的に英語でニュースを見聞きし、新聞や雑誌を読み、ネットで情報を集め、取材相手と連絡を取り、英語でインタビューを行う、というのが仕事の流れになります。
アメリカに渡ったのは1996年なので、今年で14年になります。 英語は私にとって、今や必要不可欠なものです。 でも、私の英語との出会いは、ごくありふれたものでした。 どうやって今に至ったのか、遡ってお話します。

【日本から飛び出したかった】

中学校、高校と、私にとって英語は特に好きでも嫌いでもない、学校で勉強する科目の一つでした。それでも生意気に、「先生の発音は悪いなー」「あんなのでガイジンに通じるのかなぁ」などと思っていたことは記憶しています。 しかし、受験英語に発音は関係なく、単語を憶え、読解さえ出来れば、テストでは困りませんでした。 そんな風にして、特に英語で苦労することも、得をすることも無く、大学まで進学します。

転機は大学時代に訪れました。

元来、目立ちたがり屋で、自己主張の強い私は、日本の学校教育システムに馴染みませんでした。「なんで、みんな同じ服を着せられ、同じように考え、同じような行動を取ることを強いられるんだろう。 もっと自由でいいじゃないか。」と日々思いながら育ちました。 一方で、開放的で自由を重んじ、個性を伸ばすイメージのあるアメリカには、漠然とした憧れがありました。 受験戦争を経て大学に入り、しかし入ってみればバイトとサークルに明け暮れるだけの学生生活に失望した2年生の時、アメリカ留学を決意します。

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【挫折、そして外国人留学生が教えてくれたこと】


ワシントン州の田舎町にある州立大学に留学しました。 1998年の春です。 選んだのは、最も日本人が少なかったからです。 バイトで貯金したお金での自己負担の留学なので、一年分しか費用が出ず、限られた期間で精一杯英語に触れようと思いました。 満を持しての留学、憧れのアメリカ。 でも渡ってみれば、相手の話している英語がさっぱり聞き取れません。 マクドナルドでさえ、メニューの写真を指差して注文するのがやっとでした。 読み書き主体の受験英語は、何の役にも立たず、私の自信はズタズタに引き裂かれました。

聞き取れない、聞き直しても通じない、アメリカ人と対峙するのが怖くなる・・・そんな悪循環が続いていた頃、あることに気付き始めます。 きっかけは、他の国からの留学生が与えてくれました。 当時私はアメリカ人と話すとき、完璧な発音をしないと通じないのではないか、と萎縮し緊張していました。 それが、アジアや中東からのクラスメートたちと話すときは、比較的リラックスして話せるのです。 それは、お互い外国語である英語という手段を通じて理解し合おう、という気持ちがベースにあるからだと思いました。 少々発音が悪くても、相手は聞き取ろうと努力してくれるし、こちらも一生懸命伝えようと努力します。 それに気付いてから、私の英語への考え方は一変します。学生時代、英語は学ぶ科目の一つ、すなわち学問でした。 なので、よく勉強できれば優秀だし、できなければ無能、と考えがちでした。 その意識から、アメリカ人と対峙して、彼らの半分も英語を話せないとき、自分は彼らよりも劣っているように、思ってしまいます。 しかし、英語はコミュニケーションの道具に過ぎない、と気付いてからは、むしろ「他の言葉を話せないアメリカ人のために、私達があなたの言葉を使ってコミュニケーションをしている」というくらい大きな気持ちで構えるようになりました。 それ以来、アメリカ人に向き合っても、臆することなく、堂々としていられるようになりました。 それから、私の会話力は徐々に伸びて行ったと思います。

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【悔しさをバネに】


留学中にもう一つの出会いがありました。それは映画です。
人口7千人の田舎町には、娯楽らしい娯楽はありませんでしたが、映画館は二つありました。 新作映画は、数ヶ月遅れてやってきましたが、その分二本立てでなんと当時1ドル50セントで見られました。 英語の聞き取りの練習のためにも、毎週のように映画館に通いました。 でも、最初は内容の半分も分からず、フラストレーションは溜まる一方でした。 面白いのはアクションシーンだけで、会話主体のシーンになるとついていけなくなり、終わった後も疑問ばかりが残りました。 コメディーでは、周りのアメリカ人が笑う中、ひとり笑うタイミングを逃し悔しい思いもしました。 それでも、ハリウッド映画の持つスケール感や映像美に見せられ、毎週通い続けました。 留学が終わるまでには、きっとアメリカ人と同じタイミングで笑えるようになってやる、という密かな目標を持ちながら。 結局、その年に公開されたハリウッド映画は全て見尽くした、と言ってもいいくらいです。 一年間の留学が終わった時には、おそらく7割くらいは映画の内容は理解できるようになっていたと思います。

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【日本を再発見】


日常生活でも、会話の7-8割が分かるようになってくると、アメリカ人のモノの考え方や価値観も段々分かってきました。 それは、留学前に漠然と抱いていた「自由で開放的なアメリカ」という単純なものではなく、個人主義、利己主義などの側面も伴い、日本人にとって全てが肯定的とも思えないものでした。 そんな風に英語が分かるにつれて、アメリカという国そのものへの理解も深まって行きました。 逆に、「閉鎖的で画一的」と否定的に感じていた日本社会にも、外から見てみると協調性や思いやり、という素晴らしい側面があることにも気付かされました。 そうして、私の一年間のアメリカ留学は終わりました。

帰国後は、神戸で残りの大学生活二年間を過ごします。 バイトは再開しましたが、今度は英会話学校で日本人講師として働きました。 そこでは、日本人講師はビギナーを担当し、レベルが上がると外国人講師に引き継ぎます。 このバイトを選んだのは、より多くの人に自分と同じように、英語で会話することの面白さを知って欲しい、という気持ちと、一緒に働く外国人講師たちと付き合うことで、自分の英語力をもっと伸ばしたい、という気持ちがありました。 一年間の留学だけでは、英会話能力は十分ではありません。 結果的に、その後の二年間、外国人講師と日々英語で過ごす中で、私の英会話能力は、さらにブラッシュアップされた、と思います。

それから私は、大学を卒業しNHKに就職しました。 留学中に見たハリウッド映画の影響が大きかったと思います。 映像と音声で人に情報と感動を伝える媒体に魅せられ、関係する仕事に就きたいと思っていました。 しかし、入社時からいつかまたアメリカに戻りたい、という野望は密かに持ち続けていました。 NHKで4年間ディレクターを勤めた後、転勤をきっかけに辞職し、単身アメリカに渡りました。 1996年のことです。

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【アメリカで二度目の挑戦】


アメリカに再び渡ってからは、それまで温存してきた英語力を呼び覚まし、フリーランスとしてTVディレクター/コーディネーターの職に就いています。 アメリカでこの仕事を再開して14年になりますが、今も勉強の毎日です。 ディレクターとしての仕事内容は、基本的に日本でしていたことと変わらないのですが、日本人とは気質の違うアメリカ人を相手にすると、取材のアプローチの仕方も大きく変わってきます。 取材交渉では、日本のように情に訴えるやり方は通用しないので、取材に応えてもらう意義やメリットを合理的に説明する力量が問われます。 インタビューで、心の奥底にある不安や苦悩を引きだそうとしても、常に前向きなアメリカ人はポジティブなことしか言わず、困る場面も多いです。 逆に、日本人に対してはちょっと聞き難いようなデリケートな質問も、ストレートにズバリと聞いた方がいい答えが返ってくることもあります。また、番組では科学や医療、経済や政治など様々な分野のテーマを扱うので、時に専門的な英語も要求されます。新しい題材に出会うたび、新しい発見があり、知らなかった英単語や言い回しを覚えるのは当然ですが、まだまだ底知れないアメリカという国への理解も少しずつ深まっています。

取材では、アメリカだけでなく、ヨーロッパやオーストラリアなどへも遠征します。「西洋人=アメリカ人」と思いがちですが、国が違うと実に様々な人間模様や考え方があると、気付かされます。そんな時、留学時代に他国の留学生と初めて心を通わせて話せた、あの感動が蘇ります。英語を介することで、世界中の色んな人と出会い、実に色んな人生に触れる事ができました。
私の人生は、英語によってとても大きな世界に開けた、と感謝しています。

運は信じるから味方につくものである

山本 デービッド(David  Yamamoto)さん (球団国際スカウト)

アメリカ、ロサンゼルス生まれ。幼少より日本人学校に通い、英語と日本語のバイリンガルとなる。
Purdue Universityに在学中、奨学金にて広島大学へ留学。 
卒業後はバイリンガルの能力を活かしてロサンゼルスの貿易会社に就労したが、大きな転機が訪れ、
日本人メジャーリーガーの通訳・マネージャーに転職。 選手の帰国に伴い、能力を高く評価されて、
日本の球団からの誘いで国際スカウトに就任。 現在は、アメリカにて常に優秀な外国人選手を探している。

~自分~

私は現在、日本の球団の国際スカウトをしています。 つまり、アメリカにて外国人の選手を探す職業です。 昨年までの2年半は、メジャーリーグにて日本人選手の通訳・パーソナルアシスタントをしていました。 
私自身は高校まで野球をやっていて、プロの野球選手になる夢から脱落した1人です。 野球は私の全てでした。 高校ではアメリカ選抜に選ばれた事もあり、夢が叶う実感を感じた事もありました。 しかし、肩を怪我してからは、ほぼリハビリの毎日。 結局、最後のシーズンを無難に終えて、プロへの夢は諦めました。 当時は「野球の神様」を非常にうらんだ記憶があります。 正直、私は一生グラウンドにいたい人間でしたので、悔しさでいっぱいでした。

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高校を卒業し、アメリカのIndiana州にあるPurdue Universityへ通いました。 具体的に自分は何をしたいのか分からず、1年が過ぎた頃、最初の大きなチャンスがやってきました。 それは文部省の国費留学でした。 大学の先生に進められて応募したため、当時はまったく受かるとも思っていなく、正直、無駄だと思ってました。 ところが、応募した2000人の中の最終20人に選ばれ、驚くと共に、ここまで来たら絶対にチャンスにしてやろうと思いました。 結果的にシカゴの領事館での最終審査で私が選ばれることとなり、日本への貴重な留学体験が出来る事となりました。 この時、なぜ自分が選ばれたのか不思議で仕方なかったのですが、きっと、完全なバイリンガルであるということが決め手だったと思っています。

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大学を卒業してからは、ロサンゼルスに戻り、貿易会社で働きました。 バイリンガルという強みを活かして仕事をしたかったからです。 しかし、入社はしたものの、想像していた仕事とは全く異なり、私の中では進むべく方向の分からない場所に迷いこんだ気持ちでした。 そして、自然とプロ意識が持てなくなっていました。 
そうこうするうちに、貿易会社で3年の月日が経ちました。 そんな頃、再び大きなチャンスがやってきました。 日本人メジャーリーガーが、通訳兼マネージャーで野球能力の高い人間を探しているとのことでした。 
私は選手と代理人との面接で、自分の熱い気持ちと、今までの経験を素直に話し、そして、夢も語りました。 自分のハートの中には、いつも野球を諦められない自分がいました。 しかし、いったん離れた野球界は、既に雲の上の世界となっており、もう二度と関る事の無い世界だと思ってました。 そんな強い思いを救ってくれたのは、私の野球への想いと、バイリンガルという強みでした。 そして、見事にそのチャンスを掴む事が出来たのです。

その日本人選手はメジャーで数年活躍した後、現在、日本に戻っています。 私も運良く日本の球団から誘いを受け、今の国際スカウトのポジションに就きました。 現在のスカウトの仕事も、これまでの通訳の仕事も本当に天職だと思っています。 自分とは関係の無い世界だと思ってたので、このような仕事に就けるのは不思議な気持ちと幸せな気持ちでいっぱいです。 
私は、怪我を夢に届かない理由にしていたようです。 最終的には自分に実力がなかったのです。 それに気づかず、迷子になった自分を救ってくれたのは「英語」であり、「日本語」であり、「バインガル」という能力でした。 ふと気づいた時に僕に残っていたものは日本人という立場からの卓越した英語力だったのでした。 (英語力のみであれば、アメリカ人と変りません。 日本人としてのアイデンティティーをもち、日本語も英語も全く問題のないバイリンガルであるということが私の強みでした)

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~バイリンガル~

私は多分、皆さんと逆で、生まれてまだ日本語がしっかりしていない状態からアメリカの現地の幼稚園に通い、英語が先に出来るようになりました。 そのため、今でも物事を考える時は英語が中心だったりします。 
私が子供の頃、家の中では日本語でしか話してはいけない決まりがありました。 もちろん、私は英語の方が得意だったので、両親が決めたこの規則を全く理解できませんでした。 特に子供の頃は、友達の多くがアメリカ人だったので、なぜ自分だけ辛い想いをして、2ヶ国語も習わないといけないのか納得いきませんでした。 
私は今年で丁度、29歳になるのですが、今は両親に感謝の気持ちでいっぱいです。 あれほど理解できなかったことが今になって全て理解できます。 あれほど嫌いだった土曜日の日本語学校や、高校での日本語クラスもすべて意味があることだったと思ってます。 ようやく、多言語をマスターすることの重要性と意義が理解できるようになったのです。

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~幸せ~

メジャーリーグでもそうですが、日本に留学した時も本当にいい人たちと巡り合うことができました。 少しのことが運命を変えて、素晴らしい人に出会うチャンスを作ってくれていると感じています。 人は周りの人の力を借りて自分を形成しているのだと思います。 そのため、「出会い」は非常に大切なことです。 野球界に戻ってからも、素晴らしい人たちと出会えたこと、そして、彼らと共に毎日仕事ができたことはかけがえのない幸せです。 2008年は特に、私の所属していたチームがメジャーリーグで優勝し、世界一になりました。 おかげさまで、最高な幸せを実感できた年となりました。

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~将来~

私が日々思うことは、あのチャンスが無ければ一生夢に向かうことなく、やりたくも無い仕事をしているサラリーマンで終わっていたかもしれないということ。 本当に好きな野球の世界で仕事ができているので、自分の限界を確かめて見たいという願望があります。 目標は常に高く設定しており、いつかはメジャーリーグで日本人として初のGMに就任することを夢見ています。 選手だけでなく日本人がメジャーリーグで通用することを証明し、多くの日本人に夢を与えたいと思っています。 もちろん自分ではないとしても、ぜひ日本人のGM就任は実現して欲しいと、心から願っています。

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~語学~

目標を高く持つことはとても大切だと思います。 人間の力とはどこまで発揮されるか全く分からないものです。 夢は大きく持って、世界へとチャンレンジするべきだと思います。 世界の壁はとても高く感じるとは思いますが、WBCでの侍ジャパンのように日本人は世界で通用するのです。 やはり世界で戦っていくためには、色んな意味で「英語」が最低条件であり、かつ最も強い武器となるのではないでしょうか。 もちろん、沢山の外国語があり、多くの言語を知っているほど役立つとは思います。 しかし、世界で一番使われていて、どこの国でも比較的通用する言語は「英語」です。 1つ忘れていけないのが、今この時点で英語を学ぼうか迷ってるのであれば、既にチャンスを引き寄せているのです。 人間、いつチャンスが訪れて、人生が変わるかは分かりません。

~3 Motto:3つのモットー~

最後に私が日々、心の中に思い出す事です。

Luckとは

実力とチャンスが一致する瞬間。

後悔せず生きる事。

運は信じるから味方につくものである。

出会いによって自分自身を成長させていきたいと思っています

Yuko N.さん (レコード会社)

広島県広島市生まれ、東広島市育ち。
7歳の時、父親の仕事の都合で渡米し、4年間、現地の小学校に通い、小学5年生で日本へ帰国。
高校受験を控えた中3の夏に、留学という形で再び単独渡米。 合計11年のアメリカ生活を経て、大学卒業を期に日本へ帰国し、現在レコード会社にて国際的に活躍中。

田舎で育った一人っ子ということもあり、基本的に一人で遊ぶことの多かった私は、地元の小学校への入学後もなかなか周りと打ち解けることができずにいました。 食べるのが人一倍遅かったので、お昼休みも返上して一人教室で必死に食べていたのを覚えています。 昼休みに友達と外で遊んだ記憶はほとんどないほどです(笑)。
そのようなマイペースな日々を過ごしていたある日、母親から突然、「アメリカに行くことになった」と聞かされました。 当時7歳だった私は、状況にピンとこず、「へ~」という精一杯の感想を無表情に答えた気がします。
皮肉なもので、出発までの数ヶ月で友達も徐々に増え、登校最終日には私に内緒で企画してくれていたクラスのお別れ会で、みんなが歌を歌ってくれて、プレゼントとして1本のテープをもらいました。 家に戻って早速テープを聴いてみると、クラスメイト一人一人からコメントが入っていて、涙が止まらなかったのを今でも覚えています。 このとき、初めて友達のありがたみを実感しました。

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広島の田舎しか知らない7歳の少女が、突然、広すぎる空と青すぎる海に包まれた南カリフォルニアに上陸しました。 言葉も何もかもわからない異国の地に慣れるのは、簡単なことではありませんでした。 最初の半年間、ESL(英語を母国語としない人に英語を教える)の学校へ通っていました。 そこには様々な国から来た子供たちが、英語を学ぶことを目的に勉強していました。 最初の頃は毎日時計ばかり眺めていて、とにかく、早く日本語の話せる家に帰りたいと泣いてばかりいました。 しかし、そこは自分と同じ境遇の子達が集まる場所だったので、自然と友達もでき、最初は身振り手振りだったコミュニケーションも、言葉だけで気持ちが通じ合えるほどになっていきました。
2年生になると同時に現地校へ通い始めました。 英語は会話ができる程度には上達していたものの、やはりまだまだ不安でいっぱいでした。 英語を第二外国語としているのは自分だけ。 そう思うと逃げ出したくもなりましたが、「もう前に進むしかない」と小さいながらに決心しました。 
初日の席順は名前のアルファベット順でした。 苗字が「N」から始まる私は、「P」から始まる子の隣に座りました。 この子との出会いが私の人生を大きく変えることとなったのです。

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【ステイシーとの出会い】

私の隣に座ることになったのはステイシーという子でした。 私たちは急激に仲良くなりました。 ステイシーはアメリカ人にしては内気な子で、アメリカ生活の半年で少し強くなった私としては、非常に心地よい感じでした。 私たちは、学校でも毎日一緒、放課後もどちらかの家で遊ぶ日々を送っていました。 私の英語が急激に上達したのは彼女のおかげです。 週末は日本語学校へ通い、そこでは日本人、平日の現地校ではすっかりアメリカ人になっていました。 きっとこの頃は、英語で夢を見ることも普通にあったと思います。 しかし、4年生になったある日、日本へ戻ることが決まりました。

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【カルチャーショック】

4年間のアメリカ生活を経て、内気な少女は、すっかり自分の意見をはっきり言える活発な女の子へと成長していました。 
渡米前に通っていた学校とは別の学校へ編入することになりました。 「帰国子女の転校生」という看板を背負い、休み時間には「英語をしゃべって!」、「アメリカってどんなとこ?」と質問攻撃。 それに自信満々に答えていた私をあたたかく受け入れてくれる子ばかりではありませんでした。 この学校で過ごした2年間は、私にとって楽しい思い出と同じくらい辛い思い出もあり、この経験が今の私を形成した、と言っても過言ではないと思っています。
自分の意見をはっきり言う事が必ずしも正しいことではないのだ、と学びました。
中学へ進学した私は英語が話せるということを自然と隠すようになっていました。

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【再びアメリカへ】

中学3年生の、周りが受験モードに突入していた頃、私の人生を大きく変える出来事がありました。 小学生の頃仲良くしていたステイシーとは帰国後も文通し、夏休みにはお互いの家に遊びに行ったり、遠距離ながら友情の絆を育んできていました。 そんなある日、ステイシーのお母さんから一つの提案がありました。
「ステイシーと一緒に高校に通わない?」
両親に背中を押されたこともあり、私は留学という形で再びカリフォルニアへ行くことを決意しました。

そして、現地の高校へ4年間通い、大学へ進学しました。

高校の4年間で、「アメリカから見る日本」に少し誤解があるということを感じました。 例えば、日本人は今でも日常的に着物を着ているとか。 
私は同じ歴史上の事実を見たとき、日本で学ぶ事実とアメリカで学ぶ事実に違いはあるのかということに非常に興味を持ち、あえて日本文学や日本史のクラスを受講しました。
日本とアメリカで人生の半分ずつを過ごした私だから伝えられることを、プレゼンや論文などで精一杯表現しました。
合計11年間、アメリカで過ごし、22歳の時に卒業。 ちょうど人生の半分だな、と思ったとき、そろそろ自分のルーツである日本へ戻ろうと決意しました。

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【帰国子女の社会人】

「英語が話せれば何にでもなれる!」と少々勘違いしていた私は、自信満々で就職活動を開始。 しかし、現実はそんなに甘いものではありませんでした。 
「帰国子女」=「協調性がない」「自己主張が強い」など、悪いイメージばかりでした。

地道な就職活動を経て、何度も挫折しそうになりながら、やっと小さな輸入代理店に就職することができました。 そこではメール、契約書などの翻訳からプレゼンでの通訳まで、いろいろやらせてもらいました。 日本語がおかしいと、何度も注意されながら、一般常識や社会人としてのマナーを教わりました。 そこでの経験を経て、今はレコード会社で海外関連の部署に所属しています。
年に3、4回の海外出張では、海外の取引先との商談、日々の業務では、契約書の締結やイベントのコーディネーション等、全て英語で行っています。

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日本の商品を海外へ送り出すこの仕事に、とてもやりがいを感じ、英語という国際言語を使って、世界各国の人たちと交流できることを誇りに思っています。 出張先で知り合い、交流を深めた人たちと友達になり、昨年冬、彼女らを訪ねて一人でタイへ行きました。 学生の頃とは違い、社会人になってから友達を作るのは少し難しいものです。 そんな中、国境を越えて友達を作ることができる。 これは本当に素晴らしいことだと思っています。
英語を話せるということで、確かにつらい経験をしたこともありますが、それもまた、今の自分を形成した良い経験だと思っています。 その後、日本では「英語」という強みを、アメリカでは「日本人である」という誇りを持って生活できたことを本当によかったと思っています。 
その生活が、私の視野を自然と広げ、様々な分野で活躍する人たちに興味を持ち、今は幅広い交友関係を築くことができています。 内気な少女だった私が、「1年365日では足りない!」と悩むほど、周りにはたくさんの素敵な仲間がいます。
そして現在、自分の最大の強みである「英語」と「海外経験」を生かすことのできる仕事に就けたことを幸せに思っています。
これからも日本とアメリカだけでなく、世界のさまざまな国の人たちと出会い、その出会いによって自分自身を成長させていきたいと思っています。

自分の可能性を最大限に広げてくれる一つのツールとして

岡田光晴 (Mitsuharu Okada)さん (ハワイ大学大学院社会福祉プログラム博士課程)

東京都生まれ。 高校卒業後、ロサンゼルスのコミュニティカレッジへ。 ニュージャージー州のモントクレア州立大学、コマーシャルレクリエーション学部を卒業し、フロリダのテニスアカデミー、ロサンゼルスの広告代理店、さらに翻訳通訳会社にて勤務。
再度、ロサンゼルスの南カリフォルニア大学大学院国際公共政策学部へ入学。
卒業後、ハワイ州、国立イーストウェストセンター・アジアパシフィックリーダーシップのプログラムに参加。 
ロサンゼルス市・郡の高齢者虐待防止プログラムの教育イベント、各種分野合同のケース対策チームの教育プログラムコーディネータを勤める。 
現在、ハワイ大学大学院社会福祉プログラム博士課程に所属。 
 

~英語との出会い~

僕の父親は、仕事で海外に行くことが多く、その度に、行った街の写真を見せてもらったり、訪れた国の話をよく聞いていました。 そして家にいる時は、映画をよく観ていたので、英語=映画のイメージがありました。 また、9つ上の姉も英語に興味があり、ビートルズなどを聴いていたので、自分も一緒に聞いていた思い出があります。 
幼稚園のころに、姉がマグカップに、自分の名前をローマ字で書いてくれたことがあり、それからアルファベットに親しみがわいてきました。 また、英語の歌のテープを買ってもらい、繰り返し聞いて真似をしてながら歌っていました。 あまり日本語と英語の区別がなかったのでしょう。
はじめてハワイに行った時も、理解こそしていませんでしたが、英語を違和感のある言葉とは感じませんでした。 小さいころから英語が周りに普通にあったため、英語を「勉強」していくことになってもまったく拒絶感がなかったのだと思います。

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~英語の勉強のはじまり~

僕が一番初めに英語を勉強し始めたのは小学校3年生のときです。 もともと興味があったので、自分からやりたいと親にせがみました。 はじめは絵を見ながら単語を覚えていったんですね。 日常生活になじみのある単語をたくさん覚えていきました。 家に帰ると、習った単語のアイテムを見ては英語で言う、という繰り返しをしていました。 そして、わからないものを英語ではなんというんだろうかと考え、毎日が興味の連続でした。 映画を観るときは、簡単なせりふをがんばって聞き取っては、繰り返して言ってみたりしました。

中学に入り、授業としての英語が始まってからも、あまり「学問」として英語を認識していませんでした。 そのため、他の教科は好き嫌いが激しく、成績もいまいちでしたが、英語だけはあまり苦労しませんでした。 いい先生にも恵まれたのだと思います。 音楽好きの先生だったので、授業中にギターを持ってきて一緒に歌を歌うのがとても楽しかったのです。
この先生には、ビートルズ、カーペンターズ、ベット・ミドラーなどの名曲を教えてもらいました。

父親の仕事の影響もあったのでしょう。 「英語が話せれば、世界は広がるのではないか」と必然的に思い込んでいたのかもしれません。 このころは、世界地図を見て世界にはどういう国があって、どういう人たちが住んでいるのか、うきうきしながら調べていたのを覚えています。

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~ロサンゼルスへの憧れ~

いろいろな国へ行っていた父親ですが、その中でもロサンゼルスという場所を気に入っていたようです。 一度、大きなミッキーマウスのぬいぐるみと、ロサンゼルスの写真が載っていたポストカードを買ってきてくれたのを、今でも鮮明に覚えています。 そして、父親に「こんなにたくさんの人種が隣り合わせに住んでいるところはめずらしい。 世界をコンパクトにまとめたようなところだ。 いつも天気もいいし、人々は陽気だし。 一度はロサンゼルスを訪ねなさい。」と言われました。 それ以来、ロサンゼルスへの憧れが沸いてきたのです。

高校は、大学の付属校だったので、エレベータ式に進学することもできました。 当時は「いい大学にいかなければ」という気持ちもあったので、付属高校に進んでいたのですが、僕の進むべき方向を導いてくれた先生がいました。 僕自身、全てにおいて疑問を持つような時期でした。 その時期に、その担任の先生から、毎週エッセーを書くように課題として与えられました。 疑問に思うこと、なぜ疑問に思うのか、どうそれを変えたいのか、どういう影響があるのかと、思ったことを自由に、様々なトピックについて考えさせられました。

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普通、日本の教育では、答えがあるものを解かされ、その答えに正しく導けるように訓練させられることが多いですよね。 しかし、この先生はあえて「答えのないもの」、「矛盾のあること」に対して疑問を持たせてくれて、自分の考えをまとめる練習をさせてくれたのです。 クラスメートの中には、このやり方に不快感があり、授業を嫌がる人も多かったのですが、僕はなんだか自分を出せる居場所を見つけた気がしたんです。 それまでは「普通でいるために」一生懸命だったので、自分は「ひねくれているのだろうか」、「おかしいのだろうか」と悩むこともあったのですが。 
このエッセーは匿名でやるものだったのですが、ある日、先生に言われたんです。 「お前のエッセーは特徴があるから、すぐどれだか分かる」って。 その時、個性を持つことは悪くないし、普通でいなくてもいいのではないかって思わせてくれました。 特にこの学校はバンカラ気質で保守的なところもあるので、先生にアメリカの大学進学を考えてみたらどうだと言われたのです。

それまでも留学したいという気持ちは強かったのですが、「保守的」な自分がそれを拒んでいたのでしょう。 「いい高校を出て、大学を出て、そうすればいい会社に入れて、幸せが待っている」という方程式を勝手に思い込んでいたのでしょうね。 人によって、いろいろなスタイルがあるということを押し殺していました。 この先生の言葉が、すぅーっと「自分」になることを後押ししてくれたのだと思っています。

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~いざ、アメリカへ~

単身で、ロサンゼルスに渡った当初から、不安や怖さというもが全くなく、毎日がわくわくして過ごしていました。 単純に若かったんでしょうか。 白人、黒人、ヒスパニック、アジア人など、多くの人種が街中にあふれている。 それを見ているだけで、なんだか自分の存在感を感じれる喜びがありました。 他人からの自分は、「アジア人」、「日本人」と写る。 なんだか、そういう感覚が今までになくて、本当に新鮮でした。 そして、皆、自分という個性を大切にしていて、自分の可能性を最大限に試していける、そんな雰囲気に、渡米して間もなく、「あっ!ここだ!」と感じたのです。

けれども、今まで自分を表現するとか、自分の言いたいことを発言するということに、あまり慣れていなかったのでしょう。 表現したくても、「中身」がなくて戸惑いました。 
自分は日本人の一代表であるため、日本のことをいろいろ聞かれますが、知らない、わからない、はたまた、自分は何なんだろうかと悩んだ時期もこの頃でした。 
日本語でも、英語でも、そうなのですが、言葉というのは伝える手段です。 ただ、「中身」は自分の知識や経験から作り出すしかないのです。 それまではマニュアル的な答え、決まったいい回しなどをただただ詰め込んできました。 しかし、「自分はどうなんだ」と問われた時に、周りを見回して、「正しい答え」を探している自分に気付いたのです。 突然、失敗する怖さ、先行きの見えない将来に不安を覚えはじめました。

とにかく、いろいろなことを片っ端からやるしかありませんでした。「自分作り」のスタートですね。 日本の学校はひとつの部活に入ると、ほかの部活に入れないことが多いのですが、アメリカの学校というのは、幅広く経験を増やすように、学期ごとに違うスポーツや活動が提供されていて、複数の活動ができるようになっています。 オバマ大統領も、高校時代はバスケットボールとポエムのクラブに所属していたそうです。

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僕は元来、シャイな性格ではないので、友達もたくさん出来ました。 下手な英語で話しては、間違いを指摘されて、笑い、直してまた話す、の繰り返しでした。 日本語が母国語なのだから、来たばかりの頃は英語はできなくても当然だと思っていました。 間違えてこそ、何かを学べると思っていましたし、通じなくてもへこたれることはなかったです。 勉強は相変わらず嫌いで、本を読むのも苦手だったので、クラスではすごく苦労しました。 しかし、友達も増え、映画もたくさん観ていたので、英会話は上達していきました。 必死で友達の表現を覚えて、映画を繰り返し見ては、そのせりふを使ってみたりしていました。 毎日の生活が楽しいと思えていたので、伸びるのも早かったのだと思います。

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~アクティブにいること~

自分自身をあまり理解できてなかったので、いろいろな経験を通して「自分」を分かろうと、そういう環境にわざと追い込みました。 テニスを習い始め、イタリア語を勉強し、多くのイベントに参加するよう心がけました。 こういうことをしていると友達も作りやすいんです。 そして、日本史、政治、宗教、文化などについて聞かれることが多かったので、答えれるように、本を読んで勉強しました。 また、暇とお金さえあれば、旅行に出かけました。 アメリカは大陸ですので、車さえあれば運転していろいろな場所へ行くことができます。 ラスベガス、サンフランシスコ、メキシコ、カナダなどに行きました。 96年にはアトランタオリンピックにも、行きはバスで4日、帰りは電車で4日かけて行ってきました。 様々なことに取り組み、挑戦して、自分に合うものと合わないもの、自分の強いところと弱いところを見極めていたように思います。

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~東海岸へ~

ロサンゼルスでは始め、コミュニティカレッジに通っていたのですが、3年目に4年制の大学に編入する際、ロサンゼルス以外の街へ行こうと思いました。 ロサンゼルスはとても気に入った街だったのですが、他の街を見ることで、もっと好きになるのではないか、また、もしかしたら、もっと自分に合う場所があるのではないかと考え、東海岸の大学進学を検討しました。

結局、ニュージャージー州のモントクレア州立大学に編入することにしたのです。 同時にテニスチームに所属することにしました。 さすがに場所が変われば全く雰囲気が違いましす。 ロサンゼルスでは、いろいろな人種がいるので心地よく、実はあまり「アメリカ」にいる気がしていなかったのです。 しかし、東海岸にくると、レンガ建ての家が多く、また、ニュージャージーは白人が多い地域なので、3年目にして初めて「アメリカ」を感じました。 それと、アクセントが異なるので、そこも始めは少し戸惑いましたが。

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授業にもだいぶ慣れてきた頃、試練がやってきました。 3年時のクラスですが、なんと90分の授業を英語ですべて自分でしなければならなかったのです。 僕が通っていた当時、この大学には外国人生徒がかなり少なかったのです。 しかも、リクリエーション学部は1学年で30人ほど。 外国人は学部内で僕を入れても2人しかいませんでした。 さすがにあせり、教授の部屋に何度も通いました。そんなあせっている僕に対して教授はこう言ったのです。
「人間なんだし、特に君は外国人なんだから、失敗はあたりまえじゃないか。 自分の持っているもの以上を期待してはいけないし、それ以下に自分からしてしまってもいけない。 失敗を繰り返すことが、学ぶということなのだし、君が失敗してくれたら、他の生徒だってそれが学びになる。 そして自分の財産にもなる。 大切なのは目の前にあることを一生懸命やって、次へつなげることだ。」と。
自分がアメリカに来た当初の気持ちを思い出させてくれました。 ちなみに、そのクラスはなんとかパスしました…

この教授の言葉は、それからも何度も思い出すことになりました。 次の夏にディズニーワールドで働く機会があったのですが、さすがに、プロフェッショナルな場所であるため、英語がまだ不自由な自分には不相応な場所じゃないかと、かなりのプレッシャーがありました。 しかし、始めないことには何も生まれないのです。 隣にいたキャストメンバーがどのような会話をしているのか、仕事を始めたばかりの頃は毎日聞き耳を立てていました。 結局、この仕事でフロリダには3ヶ月いたのですが、この時に本当に英語が伸びたんだなと実感したのです。

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大学卒業後は、再度フロリダに行き、テニスアカデミーでマネージメントのお手伝いをしながら、テニスコーチをしていました。 世界中から集まる将来有望なジュニアプレーヤーたちの世話をすることがあったのですが、200人位を前に指示を出したり、平気でできたんですね。 それまでの失敗がなければ、あのように堂々と英語で仕事をこなす自分はいなかったかもしれません。

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~日本への帰国~

1年ほど、大学院進学準備のために、日本へ帰国しました。 アメリカに10年ほど住んでからの帰国でしたので、毎日が「外国人になったような」新鮮さがありました。 日本にいる間は、英語講師をしていたので、英語を学びたい生徒さんたちと沢山話をする機会がありました。 生徒さんたちによく伝えていたのは、「自分を知ること」、「自分に自信を持つこと」、「反省はするけど、後悔はしないこと」、「失敗を恐れないこと」が大切だということです。 英語習得に直接関係するアドバイスではないかとも思ったのですが、どうしても伝えたかったことなのです。

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英語というのは所詮は言語です。 先生方には怒られてしまうかもしれませんが、文法やルールなんかも人が作り出したものです。 テストとなれば「間違い」となるけれども、本来の目的は意思疎通を図るためのものですから、全く堅苦しくなる必要はないんです。 身振り手振りのジェスチャーとか、単語だけを絵に描いて見せたりとか、会話とは本来、いろいろな方法があると思うのです。 伝えるために何が大切かは、そこに「心がこもっている」かどうかなのです。 心をこめるためには、自分が伝えたいことを理解していなければならないし、それを一生懸命伝える態度が大切になると思うのです。

もちろん、単語を知っている、文法を知っているということは、正確性を保つためには必要なことなのですが、同時に自分の質を向上するために努力をすると、もっといろいろなことへと派生して広がっていくと思うのです。 どこかのコマーシャルではないのですが、「可能性のないものはない」のですから、[幸せの方程式]というものは自分で作って自分で使っていくものだと思っています。

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~可能性への切符~

既に日本を離れて15年が経ちます。 しかし、「自分探し」はまだ続いています。
2001年に、アメリカ・ニューヨークで起きた「911」事件をきっかけに、何が世の中の人々の不協和音を引き起こしているのかを考えるようになりました。 事件現場が大学のそばでしたので、被害にあったり、事件を目撃した友人が数多くいて、大きな影響を与えられました。 自分は、世界の一個人として何かできることはないだろうかと考え、ロサンゼルスの南カリフォルニア大学大学院で国際公共政策学を学ぶことにしました。 答えのない物が、様々な形で複雑にかかわりあっていることが、世の中には多くあります。 時にはどちらかが正しい、間違っていると判断ができません。ただ結果として惨事となり、ネガティブな要因だけを残す場合もあります。 難しいことではありますが、それでも語り合うこと、会話を続けることのパワーは存在すると思うのです。 それが見解の違いを理解することであったり、お互いの立場を尊敬することにつながることもあると思っています。それが教育という形になりえると思うのです。

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先日、パキスタン人の友人の結婚式に招待されて、パキスタンに行ってきました。 メディアでは連日、醜い戦いの様相が報道されています。 実際に危険な場所はたくさんあるようですが、訪れた街は歴史のあるとてもきれいな場所でした。 そして、そこの人々は本当に温厚で、人なつっこい人たちばかりでした。 普通の旅行であれば、このエリアの状況を考慮すれば、あまり行くべき国ではないと思います。 ただ結婚式に招待してもらって、自分も行きたいと思えたのは、心から信頼できる友人だったからこそだと思っています。 それは、英語という言語能力のみの域を超えて、伝わり合う、分かり合う友情があるからこそなのです。 
実際に英語ができると、世界の多くの場所で通じる言語であるため、旅行も楽になると思います。 勿論、通訳を雇えば問題ないですし、便利なのですが、子供のころにやった「伝言ゲーム」と一緒で、言葉が伝わるときには、何かメッセージが抜けてしまうことがあると思うのです。 そういう面からも言語を習得しておくことは、あらゆる可能性への切符であると思っています。 そして、その広がる可能性、知識の吸収だけでなく、自分自身の新たな発見にもつながるはずです。

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現在、ハワイ大学大学院社会福祉プログラムの博士課程にいるのですが、「声」の大切さを伝えていけたらと考えています。 研究では、明治維新以前より日本政府によって、長年、その「声」を奪われてきたとされるアイヌの方々のステータス、アイデンティティ、社会福祉制度の向上の手伝いをしたいと研究を進めています。 そして、アイヌ文化の維持と発展、そして日本という国が他民族国家であり、複数の文化が存在しているというすばらしさを広めていきたいのです。 ここにくるまでには、かなりの時間がかかって、遠回りした感じもあるのですが、それでも今までの一つ一つの経験が生かされてここにいるのだと強く思っています。 
子供のころの「英語への興味」から始まり、「英語を学び」、「海外を知り」、「日本を知り」、「自分を知り」、そして、「自分の可能性を今後どう広げていくか」について考えられること自体、本当に幸せなことだと思っています。

皆さんも、自分の可能性を最大限に広げてくれる一つのツールとして、是非、「英語」、またはその他の言語を習得し、納得いく人生を送ってください。 応援しています。