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子供って無限大の可能性をもっているんですね


 

吉川 由美江 (Yumie Yoshikawa) さん (ピアノ講師、演奏家、作曲家

東京-中野区生まれ、所沢育ち。 6人兄妹の次女、3番目に生まれる。6歳からクラシックピアノを習う。
東京音楽大学入学、ミューズ音楽院卒業。 プロ・バンド=元ZELDA*のギターリスト石原富紀江の結成したバンド「リップ・スティックス」のメンバーとして、原宿ルイード*で約1年間毎月ライブ活動等を行う。 脱退後、クラシックピアノに再び熱を入れる。
日本では、松本佳子と山本矩子(巨匠=松浦豊明*の弟子)に師事。
アメリカでは、オハイオ州ウィルミントン大学のジム・ロバート・ハスキンス教授に師事。
1999年9月に渡米。渡米後直ぐにオハイオ州シンシナティでプライベートで何人かの生徒にピアノを教え始める。
2年後にケンタッキー州へ移る。ケンタッキー州レキシントン市のイタリアンレストランで数年ピアノ演奏者を務め、
クラシック以外のピアノ曲やジャズ等を学んだ。
その頃、徐々に口コミで生徒が増えた為にレストランの演奏者を辞め、現在はピアノ講師が本業。
自宅でピアノ教室を運営する傍ら、更なる英語力向上のため大学でクラスを受講する。
コンクールでは教え子たちを見守り、多くの入賞者を育成/指導中。

そんな私も、少し前までは、英語がこんなに必要になるとは想像もしていませんでした。 
子供の時には、一切英語を習ってこなかったため、後悔は好きではないのですが、「もし、ちゃんとした英語教育を子供のうちから受けていたら」とか、「日本の英語教育がもっと良かったら」とか、そのようなことが常に頭を駆け巡ります。学校の英語の授業も殆ど赤点ぎりぎりで、そこまで英語という科目を重要に感じていませんでした。英語に対する重要性の意識が日本は他の国と比べて低いと感じます。それはアメリカで出逢った日本人以外の人種と接してると分かります。     
レキシントンにはトヨタの工場もあり、小都市の割りに日系企業が結構多いため、日本からの駐在員の子供達をよく指導していますが、子供の英語習得の早さには、驚き以上に羨ましささえ感じます。子供って無限大の可能性をもっているんですね。しかし、誰もがこういった幼少期に、海外に住めるチャンスに恵まれる訳ではありません。

では、出来るだけ若いうちに、つまり、幼少期に英語教室などに通いさえすれば良いかというと、答えはYES and NOです。もちろん、若い時期から始めるのは良いことなのですが、きちんとした指導を心掛けているところでなければ意味が無いと思います。

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英語(言葉)とピアノ(音楽)には共通する部分が多いです。それは恐らく音楽も言葉と同じく一種のコミュニケーション手段であるからだと思います。
英語やピアノに関して大人になってからよく聞くのですが、
「折角子供の頃に習ってたのに、今思うとあまり良い指導を受けれていなかった。良い指導を受けられていたら人生もっと違っていた」とか、「うちの親がもっとよく調べて考えてくれていたら良かったのに」という後悔のお話です。
日本の大学で英文科を卒業した人でさえも、こちらへ来て苦労している方も少なくありません。それは恐らく総合的なバランスの良い学習内容で学べていなかったことに原因があるのではないかと思います。
例えば、私の世代では、多くの英語教育機関での学習内容の中心が"書くこと"に集中していたということはよく耳にします。その反動か、近年では耳に重点を置いた教材が注目されたり、会話主体といった教室も増えています。

しかし、実際にアメリカに住んでいると、話す、読む、書く、聞くの全てが不可欠です。この事は、ご自身の母国語で例えて考えてみると想像が付くと思います。ピアノにも共通していて、弾けるだけだったり、耳のみ集中して鍛えたりする学習法も見かけますが本当にそれで良いのでしょうか。

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ここで、数ヶ月前に、日本で師事した山本矩子先生から頂いた、お手紙を引用いたします。

"言葉と同じで本当に知るには、多方面を知らなければなりません。 会話が出来て、読めて、聞けて、書けなければ文盲のようなものでしょう。 楽器が弾けて、譜が読めて、書くことが出来なければ、浅い知識に過ぎません。 程度は弾く程でなくとも、ソルフェージュ(歌詞無しで楽譜を唄う、そして耳で聞いた音譜を書くこと)の四つ=話す、読む、書く、聞く、は大変重要なことです。"

 

 以上の事からピアノや英語(言葉)を習うのなら、やはり総合的な学習内容で学ぶのが理想です。
そのことから、ピアノも英語も最初に門を叩く場所が非常に重要になってきます。
私は地元の音楽講師協会の先生方から、「導入期&小さい子供の専門家!この辺でベストだ!」(恐縮ですが)といった評価を頂いているので、どこかで既にピアノを習っていたけど、上達が思うようにいかないと悩んでいる生徒が私のところへ回されて来たりします。

それらの生徒達には、可哀想に思う場合が多いのです。それは上達出来て無い原因が明らかに子供の才能うんぬんの問題ではないからです。勿論、3~6歳前後の子供の進度には大きな個人差があって、中にはゆっくりとしたペースの子もいて当然なのですが、それにしても上達どころか導入期に徹底されるべき最低限の総合的基礎が、ろくに指導されてない状態です。悪い癖を付けるのは簡単ですが、その癖を直すのには時間も掛かり厄介です。
先ず揃って皆譜読みが苦手=指導されて無い=出来ていないのです。音符に講師の字でドレミ/CDEのカナが書いてある状態で音符も作曲家の指示も読めてないのに、結構難しい曲をやらせてる形跡があります。ソルフェージュ*の指導は殆ど無いです。保護者の方も何も気付かなかったのか、ただちょっと弾けるようになってるから安心してしまったのかもしれませんが講師と生徒&保護者間のコミュニケーション不足が伺えます。アメリカは日本より、コミュニケーションに重点を置いてます。指導者と生徒と保護者の良い関係が生徒の成功の鍵ともなるので、誤解が生じないようお互いを理解+尊敬するべく歩み寄る事も大切に思います。 

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先ずは良い教室/講師探しからです。
ここで妥協するかしないかで本人の将来が大きく左右することにもなります。教室/講師とは、ある意味「お医者さんのようなもの」です。そう考えると値段と距離と質の全てを求めるのは難しいです。しかし一番大切なのは「質」です。
それと保護者の方の中によく見受けるのが、「うちの子には才能が無い」といった誤解です。大抵の才能は環境と大いに関ってきます。本人にいくら才能があったとしても良い環境に恵まれなければ開花出来ないと思うのです。私が思うに、良い環境とそれなりの良い指導者に習うという条件が整うと、才能に恵まれなかったとしてもそれなりのレベルまで到達出来るのです。(それも一つの才能であると思いますが) 幼少期の子供の可能性には計り知れないものがあります。どんな子供もそのような可能性を持ってます。ですから、この時期の重要さは認識しておかなければなりません。

また、保護者のサポートがいかに大切かに気付いていない方もいらっしゃる様です。これからの時代は、指導者側からも気付かせてあげるのが良いのかもしれません。 子供には「欲」があまり無いので、講師側のみに任せっきりでは興味を持続させるのが難しいです。ピアノならコンサートに連れて行ったり音楽やピアノがもっと出来るようになりたいと思わせる工夫をすることです。英語なら、洋画を見に行ったりして、英語が出来ると凄いなとか、ステキだなとか英語を役立てる環境を配慮してみることです。「好きな気持ち」や「興味」以上のやる気のエッセンスはありません!
ある保護者の方の中には、子供に「練習しろ/勉強しろ」とさえ言っていれば良いと思われてる方もいます。そうではなく「子供の頑張ってることに関心を見せるべきです」 子供を上から目線でなく、子供が頑張ってることに興味を寄せ、一緒になって頑張るくらいの姿勢が大切です。2009年度バン・クライバーン国際ピアノコンクールで見事に全盲で日本人初優勝をして話題になった、辻井伸行さんのお母様の子育てについてのメールセミナーにも多くのヒントが書かれてます。
(辻井いつ子の子育て広場:http://kosodate-hiroba.net/) 

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保護者の方が一緒に練習や勉強に付き合ってあげる事をお勧めします。個人差があって、子供によっては中学生くらいまでは必要かもしれません。後できっと子供から感謝される事と思います。
〝決して自分の子供より出来る子と比べないこと!比べるべきなのは本人自身とです!"
その子なりのペースがあります。進度が遅いとか粗探しはせず、良い部分を見てどんどん伸ばしていくべきです。保護者の方の影響は子供に大きいのです。そんな大きな存在に日々憂鬱な気持ちで横に居られたら、子供にも当然良くありません。又、実際上達していても"目に見えない上達"というのもあるので勝手に決め付けては大変です。
最近の保護者の方にありがちなのが、「待つこと」がちゃんと出来ないのです。いくら良い指導者に習えたとしても、それだけでは本領を発揮出来ません。『講師-生徒-保護者』の、この3つがちゃんと機能して、はじめて本領を発揮するものなのです。
日本の根性論も良いですが、あまり長時間の辛い練習/勉強に目標を置かないで、「効率の良さ」=「いかに時間を掛けずに出来るようにするか」が理想です。又、「お金が勿体無いからやめろ」と言うのは、ある意味で逆にも取れます。折角今まで時間とお金を掛けて習得してきたことを、全て無駄にすることになるからです。少しずつでも続けてれば、全く止めてしまうよりは忘れることを防げます。そして数年後に、いきなり自発的に練習に励むようになるということも少なくないのです。そう、才能もいつ開花するか分かりません!
  〝止めることはいつでも簡単に出来ます!『継続は力成り』で続けることに意味があるのです"
最も残念に思うのは、保護者の勝手で子供に習わせておいて、保護者の都合でやめさせるケースです。特に英語やピアノで、これは意外と多いのです。子供が可哀想です。

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私は日本で義務教育で6年間英語の授業を受けてきましたが、渡米直後は英語が全く駄目でした。
しかし人生は1度きりです。なので「諦めるより少しでもやってみよう」と自分に思い聞かせて現在までやってきたので、英語が多少は出来るようになってきてます。アメリカの生活で大変だと感じることもありますが、今回このエッセイを書くことで改めて考えてみると、大変でもこうしてアメリカで英語が学べていける環境に良かったと感じます。

 英語がもし全く出来なかったら、全米音楽指導者協会/MTNA=Music Teachers National Associationの会員にもなれなかったし、折角アメリカにいながら日本以外の文化を知ることも出来ていなかったと思うのです。多少出来れば色んな人種と出逢い、それぞれの国で流行ってる音楽や民族音楽などが知れたり、自分の音楽への影響も大きいです。

私の通う大学の英語のチューターの中にハンガリー出身の人がいて、彼女とハンガリーのソルフェージュ教育の事情やリスト、バルトークやコダーイ(ハンガリーを代表する作曲家)の話で盛り上がったり、またそこに新たな発見や学びもあります。特に私が自分の生徒にコンクールでハンガリーの作曲家の曲を弾かせたと伝えると、大喜びします。

音楽は世界中の人々と分かり合えるものなのです。なので日本語のみの情報に頼るのは、やはり狭い世界で偏ってしまうと思うのです。特にピアノを教える立場の人は、英語は最低ある程度出来た方が良いと感じます。それは、教える側は常に広く色々と知っていることが不可欠になるからです。英語が出来なくても日本語訳されてる専門書に頼れるからと安心していませか?
実際にアメリカで良書とされてる本でも日本語訳されてない物が結構あります。ピアノの導入期の教材も最もポピュラーな物が日本語版でなかったりするのです。これはピアノに限らず全ての分野においても同じことが言えるのではないでしょうか。
そう考えると、何か極めたい方や専門的な勉強をされてる方はやはり英語が出来た方が知識の幅が広がると思います。渡米当初、未だTVやニュースを理解出来なかったのですが、徐々に分かるようになってきて日本のニュースや考え方、情報等とこちらでの情報とにズレや温度差を感じる事もあります。面白いことにアメリカ人以外の人種と話すと、またそこに更にズレがある何てことも。でもそれを知ることが出来るのも英語を通してコミュニケーションが出来るからなのです。

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私は自分の生徒達の演奏をYoutubeにアップしてますので、各国の方々から、色々なメッセージをいただいています。 ドイツ、フランス、アメリカ、イタリア、アイルランドetc. のピアノ講師をはじめ、世界中の方々と情報交換をしています。 
そして小林愛美ちゃん*のスポンサーからもコメントを頂いています。
"Are you specializing in very young children? You get incredible results!!!"
Byパトリックさん Fromフランス
勿論、Youtubeではどの国の方とも英語でやり取りしています。

*「小林愛実ちゃん」は日本が誇る若き天才少女ピアニストで、徐々に世界中に人気が広まってます。
(参照:kobayashiaimi.pdf)

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英語の凄い所は、ほぼ全世界の人々とコミュニケーションが可能な事です。
そんな私の現在の目標は、仕事やあらゆる面で使える英語力のレベルアップです。そうしなければこれ以上世界が広がらないと考えています。
仕事上、地元オーケストラのコンサートのレセプションに招かれ、世界的に活躍するピアニストと会える機会が時々あるのですが、そんな時、「ああ、もっと流暢に気の利いた話が出来たら、どんなに有意義な会話をすることが出来るのだろう」と落ち込んだりします。アメリカ人の生徒に対しても、英語がもっと出来たら、更に良い例え話や助言をたくさん出来るだろうにと申し訳なく思ったりもします。しかし、私よりずっと英語が堪能でも生かせて無い方もいます。
やはり語学力以前に、一人の人間として色々経験して自分を磨く事も大切だからなのかも知れません。そして海外を知るには日本をもっと知らないといけません。日本人以外の人から聞かれるのは先ず「日本の事」なのです。そうです、英語を学ぶことは祖国をもっと知ることが出来るきっかけにもなるのです。

最後に私からのアドバイスとして、
英語も音楽と同様に、出来るだけ総合的な学習内容でバランスよく学ぶ事を念頭に置き、独学よりも良い学校や講師から習う事をお勧め致します。折角、時間とお金を掛けるのですから後悔の無いように頑張って下さい!大人であっても今からでも決して遅くありません!

[参照]

*ZELDA

1.http://74.125.47.132/search?q=cache:T4vbo1GBvB8J:ja.wikipedia.org/wiki/ZELDA+%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E5%AF%8C%E7%B4%80%E6%B1%9F%E3%80%80zelda&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

2.http://74.125.47.132/search?q=cache:yVUr9o2wXOAJ:en.wikipedia.org/wiki/Zelda_(band)+%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E5%AF%8C%E7%B4%80%E6%B1%9F%E3%80%80zelda&cd=58&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

*原宿ルイード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AE%BFRUIDO

*松浦豊明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E8%B1%8A%E6%98%8E

*ソルフェージュ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5 

恥ずかしがらずに、積極的に英語環境に身を置き、色々と学んでいって欲しい

M. T. さん (ホテル 宿泊予約業務)

三重県出身。 中高一貫のカトリック校へ進学し、短大卒業後にアメリカ・カリフォルニア州へ留学。
Orange Coast Collegeにてホテルマネージメントを専攻。
帰国し、現在、新宿の某ホテルにて宿泊予約業務に従事している。

現在の職場で働くうえで、私が常に思うことがあります。 
それは、『もっと英語を勉強しておけば良かった・・・』ということです。

初めて英語に触れたのは小学5年生の頃、近所で英語塾が開かれたのがきっかけです。 大学生の若い女の先生で、通っている子も、私も含め近所の子供達ばかり。 アルファベットを覚えたり、動物の単語を覚えたり、歌を歌ったり、塾というよりもむしろ、お稽古ごとに近い感じでしたが、とても楽しく、毎回、塾の日を楽しみに通っていました。
ある日、私の手元に一通の絵葉書が届きました。 先生が夏休みにアメリカ旅行に行き、その際、生徒一人ひとりに絵葉書を送ってくれたのです。 その写真を見た時、『私もアメリカに行ってみたい』と初めて思ったのでした。
その後しばらくして、先生は就職のために塾を閉鎖し、私は中学校へ進学しました。
私の通う中学校は中高一貫のカトリック校で、英語の先生はアメリカ人でした。 毎日英語の授業があり、公立で使う教科書は一切使わず、ブロック体よりも先に筆記体の練習から始まりました。 お陰で全国統一模試等ではそこそこの結果を残すことが出来た気がします。 

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中学2年の夏、母親に連れられて、ある新聞社主催の留学説明会に参加をしました。 そして夏休みの1ヶ月、オーストラリアでホームステイをすることになりました。 初めての一人旅行で、しかも海外だということもあり、はじめは不安な気持ちでいっぱいでしたが、いざ行ってみると、小さな子供が1人で来ているからという理由で、周りの人はみんな凄く優しく接してくれ、日本語が一切話せないホストファミリーも、一生懸命私とコミュニケーションを取ろうと、日本語の本を片手に、色々と話しかけてくれました。  とても楽しい毎日でした。
しかし、最終日のいざお別れという時に、ある大きな出来事が起こったのです。 オーストラリア滞在のお別れ会で、どうしても私は一緒に来ていた日本人の友達のそばにいたくて仕方がありませんでした。 せっかくホストファミリー総出でお祝いに来てくれていたのにです。 そして、ホストマザーに何かを話しかけられても、何を言っているのか全く理解できず、結局、日本から一緒に来ていた引率の方に通訳をしてもらうことになりました。 
1ヶ月間、一緒に生活させてもらって、そんなことは初めてでした。 ですから、余計にその出来事が幼いながらにとてもショックで、その時初めて、『英語は一生懸命聞こうとしない限り、ただの雑音と同じなんだ』ということに気が付きました。

その後、月日が経ち、短大へ進み、普通に就職活動をしていた私に、ある日、また母親が、『留学でもすれば』と声をかけてくれたのでした。 その一言がきっかけとなって、一気に留学準備へと急展開することになりました。
短大を卒業してから2年後の春、準備資金もある程度貯まり、念願のアメリカへ留学することになりました。 
最初は緊張し通しで、周りの人達と意志の疎通をはかることすらままならない状況でした。 でも、日本では味わう事の出来なかった文化に触れられ、大変充実した日々を送ることができました。
ホストファミリーは今まで何人も留学生を受け入れており、とても優しい老夫婦で、アメリカでの文化や過ごし方等を色々と教えてくれました。 ただ、その分、日本語もかなり知っていたため、あまり英語を使わなくても会話が成り立つという状況に、むしろ焦りを覚えたので、私は家を出ることに決めました。

アパート暮らしになり、アメリカに来て半年ほど経った頃、住んでいた部屋の電話が突然不通になり、1人で大家さんに相談しに行くことになりました。 当時の私は、ルームメイトに頼りっきりで、そういった大事な要件は全て任せっきりになっていました。 でも、それじゃあ渡米した意味がないのではと思い、勇気を出して、1人で管理事務所へ向かいました。 そして、自分なりに考え、一所懸命説明をしたつもりでしたが、相手は全く理解してくれず、『あなたの言っている事は全然わからないわ』と面と向かって言われ、あまりに悔しくて、1人泣きながら家に戻りました。 しばらくして、ルームメイトが帰ってきたので、その件を報告したところ、ここで負ける訳にはいかないのではないかと説得され、ルームメイトに同行してもらって、再度管理事務所へ向かいました。 今度は別の人が対応してくれ、私のつたない英語をちゃんと理解してくれて、ルームメイトがその前の担当の人の態度を抗議してくれたところ、とても申し訳なさそうに謝ってくれました。 この件で私は、更なる英語の勉強の大切さを気づかされました。 そして、いかに学校の先生や数日前までお世話になっていたホストファミリーが優しく接してくれていたかを改めて実感したのでした。
そうして、なんやかんやと、アメリカで5年ほど過ごし、日本に帰ることになったのです。 

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日本に帰ってきて、私はホテルに就職しました。 そこでまた、大きな挫折感を味わうことになったのです。 
就職したての頃ですが、海外に英語でメールをしなければならなくなり、日常会話はある程度、不自由ないくらいの英語力はあったつもりでしたが、ビジネス英語を使うのは初めてでしたので、辞書を片手に必死に文章を構成しました。 そして、送信したところ、CC(複写機能で、同じ内容のメールを送信する機能)に入っていた営業の人から、思いっきりダメ出しをくらってしまいました。 『誰があんなメール送ったの? あなた? 何年留学してたんだっけ? 5年? 5年もいてその程度?』と。 今度から送る前にチェックを入れてもらう事となり、その件は落ち着きましたが、私にとっては大変屈辱的で、即刻ビジネスレターの書き方の本を買い込み、一から勉強をし直しました。
そして現在も同じ部署で働いています。 ようやく、何とか海外のゲストやエージェントともやり取りが出来るようにはなりましたが、過去に受けた屈辱は忘れないで、日々勉強をしていかなければいけないと心に留めながら働いています。

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英語は使わないと、すぐに忘れてしまいます。 特に単語は、普段使っている言葉以外のものはなかなか口にも出てきません。
留学を決めた当時は、『映画を字幕無しで見られたらいいな~』くらいの軽い気持ちでしたが、現在でも、家でDVDを見るときなどは、極力、字幕を付けないで見るようにしています。 また、辞書は英英辞典を使うようにし、なるべく頭を英語脳にしようと、少しながらの努力をしているつもりです。 それでもやはり、昔とは違って、スムーズに英語が頭に入ってはきませんが。

『英語の発音が染み込むのは3歳くらいまで』と良く聞きますが、本当に若いうち、頭が柔らかいうちになるべく英語の環境に慣れておくことは非常に大切だと思います。
これからも世界の共用語として英語を使う機会はどんどん出てくるはずです。 これから勉強を始める人も、恥ずかしがらずに、積極的に英語環境に身を置き、色々と学んでいって欲しいと思います。
私も過去の経験を生かし、『日々努力』の精神で頑張っていきたいと思っています。

英語は生きていくために必須なものとなる

英語と人生
平野隆嗣 (Ryuji Hirano)さん (外資系ITコンサルティング会社)
 
神戸市生まれ。 甲南大学経営学部卒業。 Chapman UniversityにてComputer Information Systemsを専攻。 卒業後、カリフォルニア州の住宅機器メーカーでのウェブサイト・社内ポータル構築業務、監査法人でのTAX業務のインターンシップを経て、日本へ帰国。 現在、外資系ITコンサルティング会社で活躍中。 主に、大手総合家電メーカーにてSCM関連のシステム導入(SAP)、改善案件や提案活動などを担当している。

<中学時代:英語嫌いだった>

中学時代、英語が嫌いだった。
単純に、テストの成績が一番よくない科目だった、というのが英語嫌いの理由だった。 今思うと、「何故英語を勉強するのか」という目的も、「英語が話せると何が変わるのか」ということも分からず、楽しさを見出せなかったからだと思う。

<高校時代:英語って必要かも?>

両親ともに仕事は忙しかったが、それでも毎年夏休みに家族旅行に行くことが家族の恒例行事だった。
このころは東南アジアを中心に毎年海外に旅行をしていたため、海外の多様な人種や文化に触れることが出来た。 弟がInternational High Schoolに入学したのもきっかけで、「英語を話せると世界が広がる」と感じ始めたのか、英語に触れる機会が増え、いつの間にか得意科目になっていた。

<大学時代:カリフォルニアへの短期留学>

正直、大学1回生・2回生の時分はろくに勉強もせず、遊んでばかりいて、これまでの人生で一番無駄な時間だったと思っている。
これではいけないと思ったのが大学3回生の夏、California State University, Long Beach校の語学プログラムに1ヶ月ほど短期留学をした。 ホームステイの家族と過ごしたり、アメリカ人とサーフィンをしたり、レンタカーで出かけてたり、「アメリカで生活する」ということを経験した。
この経験を通して、アメリカ人のバイタリティと、アイデンティティに強く影響を受け、本格的に留学することを決意した。

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<留学時代:アメリカでの大学生活>

甲南大学を卒業後、その9月からCalifornia州のChapman Universityという比較的規模の小さな私立大学で、留学生活をスタートさせた。
将来どんな仕事につきたいか、という具体的なイメージはまだなかったが、ITのスキル・知識は必ず必要になると思い、Computer Information Systemsという専攻を選択した。結果として、アメリカでの大学生活を通して、英語力が向上し、同時にITの知識・スキルが身についた。
それ以上に自分が成長できたと感じたことは、「Confidence(自信)」。 同じ後悔をするなら、「やればよかった」という後悔はしたくないので、「自分には無理だろう」と可能性を狭めずに、常にChallengeするようになった。
いつの間にか、物事に動じることもなくなり、何事にも自信をもてるようになった。

<仕事>

卒業後、日系企業の住宅機器メーカーに就職した。 商品のウェブサイト、ショッピングサイトの構築、また自ら提案した社内ポータルの構築を手がけた。  給湯器、ウォシュレットなどの営業や修理にも関わったり、Home Showなどの展示会に参加したり、様々な経験が出来たと思う。
その後、会計の勉強にと監査法人でのTAX業務のインターンシップを経て、ボストンのキャリアフォーラムにて外資系ITコンサルティング会社に入社し、日本に帰国した。
帰国後、ITコンサルタントとして、大手総合家電メーカーにてSCM関連のシステム導入(SAP)、改善案件や提案活動などを担当し、現在に至る。

<英語>

なぜ、英語が必要なのだろうか?経済大国1位のアメリカについて考えてみた。 

アメリカが世界を牽引してきた理由は、「アメリカ人が優秀だから」ではないと思っている。 移民政策によって世界中から優秀な人材が集まり、教育やビジネスを発展させた、というのが背景にあり、「アメリカに優秀な人が集まり、優れた教育システムを作ったから」だと思う。 例えば、Googleの創業者であるセルゲイ・ブリンは、ロシア人だ。 世界で最高水準の教育レベルを誇るスタンフォード大学在学中に、友人と検索システムを開発した。 そしてGoogleは世界中から優秀な人材が集まり、世界中の人に最も使用される検索エンジンに成長した。
これからグローバル社会で生き抜くためには、海外から集まった優秀な人材と仕事をし、海外をターゲットに仕事をしていかなくてはならない。 同僚がアメリカ人、後輩がインド人、上司が中国人なんてことが当たり前の仕事環境になる。
その上で、「英語はコミュニケーションをするための共通語」として必ず必要な、ツールである。
ただし、「英語力」だけで満足しないで欲しいと思う。

もう一歩先を考えると、インドは理工系の教育に力を入れており、ITビジネスの人材を輩出する最大国となった。 中国は、圧倒的な労働力と上昇志向の高い国民性を背景に、OEMを中心とした製造業を成長させてきた。 もはや日本が「IT産業」や「製造業」だけで、インドや中国に勝つことは難しい。 今後、日本がどのような方向に進んでいくかは疑問である。 しかし、英語力を生かして様々な教育を受け、専門的な知識、論理的思考、創造性を兼ね備えた「ハイブリッド」な人材が、日本の政治・教育・ビジネスを牽引していくと思う。

「英語力」を身につけることが、あなたの可能性を広げてくれる。 そして、英語は生きていくために必須なものとなる。できるだけ多くの人がそんな意識を持って英語に触れ、習得していって欲しいと思っている。

好きこそ物の上手なれ

荒川 葉子 (Yoko "Nobori" Arakawa)さん (中国広東省恵州 在住)
 
大阪生まれ。 地元の大学にて政経学部政経学科へ入学し、経営情報学部経営情報学科に編入。 
大学の交換留学生としてアメリカ・NY州エルマイラ大学へ留学したのをきっかけに、日本の大学を休学し、そのまま、エルマイラ大学を卒業。帰国後、日本の大学へ復学し、NPO法人・日本リアリティセラピー協会、日本選択理論心理学会にも所属。 
同大学院、経営情報学研究科にて「日本の経営倫理について」学び、卒業。
東京で保育園の保育スタッフ、アメリカ・フロリダ州Lakeland、Blake Academy(小中学校)にてインターンシップ、東京都大田区教育委員会管轄の不登校生徒のための学校にて適応指導教室勤務、NPO法人・女性人権センターステップにて電話相談カウンセラーなどを経て2008年12月に結婚。 現在は、ご主人の仕事上、中国・広東省恵州にて生活をしている。

・英語と私 ~英語学習から英語教育へ~

実は、タイトルにもあるように、私はただ英語が好きなだけでした。この好きな気持ちは、あこがれでもあり、夢でもありました。 英語を話す人が輝いて見え、その姿が、私の理想像となっていたのでした。

私の小学校は当時では珍しく、4年生から英語の授業がありました。 その頃の授業は、先生の言うことを聞いたり、発音してみたりと、あまり楽しいものではなかったのですが、「好き」という気持ちが強かったので、英語に関わること自体が楽みでした。 
小学校での英語授業の始まりと同時期に、ECCにも通い始めました。 ECCは会話重視だったのですが、英単語のつづりが全く読めないので、聞いたものを必死に真似するだけでした。 単語の読み方を丁寧に、細かく教えるということを全くしてくれなかったので、先生が教材のどこを読んでいたのかすら分からないときもありました。 しかし、ここでも、英語を学べるというワクワク感が学習を継続させてくれたのでした。 今思い返せば、全く会話の意味は分かっていなかったのですが。

中学校の授業では読み書き重視だったので、ひたすらテストのために暗記する勉強でした。 でも、英語を話したいという思いの強かった私は、テープやCDを通して、発音にも力を入れていました。 英語に関する歌や、外国の小咄、国際文化など、いろいろな視点から英語に携わる物・事・人に興味を広げていったのですが、全くと言って良いほど、外国人と関わるチャンスはありませんでした。 

14歳の春休み、大阪市とオーストラリア・メルボルン市の姉妹都市交流の派遣団の一員として2週間のホームステイ旅行に行きました。 私の初めての海外旅行です。 ここでの経験が私の英語への想いを更に強くしました。
すごく楽しい経験、素晴らしい出会い、見るもの聞くもの全てが初めてで、感動しました。 それと同時に、苦痛な出来事もありました。 英語が「しゃべれない」のです。 それまで、英単語の暗記をはじめ、英語のテストにはかなり力を入れてきたのですが、いざという時に、まったく聞き取れず、しゃべれませんでした。 
そんな私に対しても、ホストファミリーは、いつも笑顔で優しく、親切に接してくれました。 その時に思ったのです。 もっといろんな自分の気持ちを伝えたいと。 この経験が、その後の英語学習のモチベーションとなっていったのは言うまでもありません。 同時に気付いたことは、英語は人と人をつなぐコミュニケーションのツールでなければならないということでした。

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高校では国際文化コースに進み、たくさんの英語授業を受けました。 しかし、ほとんどの授業は、受験を目指すためのテクニックや、暗記重視、テスト重視でした。 会話を楽しめる機会は週に1回、オーラルコミュニケーションという授業のみでした。 しかし、この授業でさえも、45人のクラスに1人の外国人講師だったので、楽しめるわけがありません。 私も他聞にもれず、大学には行きたかったので、受験英語だと割り切って英語の勉強をしていました。 しかし一方で、受験だけに縛られたくないという思いもあり、外部で開催される国際交流会などにもよく参加していました。 交流会を通じて、英語圏の友人を作ったり、英語を話すチャンスを作ったり、交流会後もコンタクトを取って遊びに出掛けたり、その友達が帰国した後でもペンパルとして交流を続けたりしていました。 この頃からでしょうか。話せる、聞けるという感覚を少しつかみ始めました。 
高校生の夏に、大阪府と中国・上海市の姉妹都市交流団に選ばれたことがあります。 2週間で4都市を訪問しながら、現地の中高生たちと、文化交流を楽しみました。この時に驚いたのは、中国での交流にもかかわらず、共通言語は「英語」だったのです。 当時、英語を話せる生徒はほとんどいなかった日本側に対して、中国の生徒たちは、おどおどせず、間違っていても一生懸命伝えよう、話そうという気持ちから、英語でしっかりと話しかけてきました。同年代の中国人達が英語を使って積極的に交流をはかっていた光景は、今でも鮮明に記憶に残っていて、当時はかなりのショックを受けました。 

大学生となり、同じ大学内で転部した夏、交換留学生として、アメリカ・NY州のエルマイラ大学へ留学しました。 もっとアメリカで勉強したい。 そういう想いが日増しに強くなり、日本の大学の単位を移行して、残りを全てアメリカで取ることにしました。留学1年目は、「自分は英語だけの環境にいるのだから、やるっきゃない!」という思いで、ただ突っ走りました。 そして、2年目突入の頃に、なんか英語が聞き取れる、分かるって感じが具体的につかめるようになって、話すことに関しては、「話して間違っても、訂正すれば良い」と、開き直ることができるようになりました。
留学2年目にして、やっと英語を話すことに対して「自信」がついてきました。それまでは、積極的に前に出ては英語を使っていたのですが、聞き取りも含め て、なかなか自信に結びつかなかったのです。 いろいろな経験も積んできていたのに、いざとなると、時々、英語が怖くなることがありました。 それでも、 自分で選んで決めた留学に、「諦める」という文字はありませんでした。 そして、2002年6月には、とうとうエルマイラ大学を卒業することができたのです。

帰国後は、国際交流事業のボランティア通訳をしたり、災害時の緊急通訳として登録をしたり、教会に来たミッショナリーの通訳をしたり、ホームステイを受け入れたりと、「英会話力」を使って、あちこちを奔走しました。 また、大阪・千里インターナショナルスクールのスペシャルプログラム事業であるサタデースクールとサマープログラム(Just For Kids)で、アシスタントスタッフとしてアルバイトをしました。 この時から、英語を学ぶことだけでなく、教えることや教育自体に強い関心を持つようになってきたのです。
それ以降は、英語を教えることや教育に力を入れ始めました。 東京の保育園にて保育スタッフとして勤務したり、NPO教育支援協会管轄の小学校英語指導者資格(J-Shine)を取得したりしました。 また、東京都大田区教育委員会管轄の不登校生徒のための学校で適応指導を行ったりもしました。

今は、中国・広東省の恵州にいて、英語の通じない生活をしています。 しかし、この地でも英語の大切さや重要さは日々感じています。 いつか日本に帰ったら、英語教育に携わって行きたい。 それが、私の夢であり、これからの人生です。 

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~English Gives Me Tons Of Chance!~

・英語を学ぶことは、どうして必要なのでしょうか?

国境を越えて、民族や人種という壁を越えて、お互いを知る上での手段として。
それが私の考える英語学習の必要性です。現在、世界中で約15億人の人が英語を使って意志疎通が出来ると言われています。これは地球人口の約4分の1にあたる人数です。
私は今、中国広東省恵州に住んでいるのですが、ここの町では4つの言語、北京語、広東語、客家語、恵州語と、似てもにつかない、違った言語が飛び交っています。そして、政府改革によって、公用語は北京語と定められています。しかし、13億人が住むこの国では、地方、地域、または過去の教育過程に置いて北京語を学んだことがない人も居るので、全ての中国人が北京語を話せるわけではありません。恵州は他の主要都市と比べ、大変小さい町です。
※恵州市:1988年に制定、日本の岐阜県くらいの広さに約376万人が住んでいる。

いくつかの日系企業や外資系企業があり、ビジネスの町としては盛んですが、4つの言語が飛び交い、教育水準も皆、てんでばらばらな人々が集まる町なので全く英語は通じません。そして広東省は、特に地方からの出稼ぎ労働者が多いため、中国北部、西部、東部地方からの出身者が多いです。

もし、町で何かトラブル(事故や病気etc)が起きて、近くの人に救いを求めてもhelpという単語でさえ99%分かってもらえないのです。そんな町でも、緊急事態の際、対応してくれる電話番号があります!これは異国から来た人々にとっては嬉しい電話番号です。―しかし、その対応言語は"英語のみ"なのです―町に住む人々の90%以上が英語を話せない町でありながらも、英語対応の電話番号を設けているということは凄いことですよね。ここで、もし英語が分からない場合、きっと多くの人は自分の言語を話せる相手を捜すために四苦八苦するでしょう。
英語を学ぶことが必要という理由のひとつとして、中国恵州に限らず、多くの国が英語対応の緊急策オフィス・電話番号を設けている点があげられます。海外旅行で利用する際の日本語対応の電話番号だけでは、自分の身が危険にさらされているとき、助かる確率が小さくなりますが、英語という強みを持つことで、身の安全性をより一層高く早く解決に導けるでしょう。

・英語を学んだらどんな楽しみがあり、どんな広がりがあるのでしょうか?

極端に言えば、少なくとも70ヶ国の人々と交流ができるようになります!これは英語を公用語としている国が約70ヶ国あるということだけなので、英語が公用語でなくても、英語を使える人を見つければ、70ヶ国以上の人と交流できます。オリンピックや世界サミットなどが良い例でしょう。
楽しみとしては、自分自身の趣味や興味について共有することが出来ます。例えば、私はディズニーランドが大好きです。今ではディズニーランドはアメリカを始め、フランス、東京、香港にあります。そして、2013年には上海ディズニーが完成します。世界中で愛されているミッキー。ディズニーの物語やキャラクター達は世界共通のエンターテイナーと言っても良いでしょう。私はディズニーランドに行きたいがためにアメリカのフロリダに住む友達を作り、香港に住む友達を作り、東京に友達が来た際には一緒に東京ディズニーへ行って、ディズニーの魅力を楽しみ、英語という言語を通じて、ディズニー映画についても語り合うことが出来ました。好きなことで友達も広がり、外国旅行へ行ける楽しみとなるのです♪

・英語を話せて・・・
 

私はいつの頃からか教育について、とても興味を持ち始めました。しかし、年齢とお金の問題から、教員免許を取るための取り組みや、大学へ行き直すということが出来なかったのですが、幸い英語が話せるという強みと、アメリカの小学校の校長先生と友達だったおかげで、日本文化紹介の教員としてインターンシップをするチャンスを得ました。就労VISAなどは無かったため、無報酬でのインターンシップでしたが、2ヶ月間、アメリカの教育について肌で体験することが出来ました。ここでは英語で「よさこい踊り」を教えたり、日本の小学生たちのこと、教育について、折り紙授業などをしました。日本では教員免許がなければ、教壇に立つことさえ出来ないのですが、アメリカでの自由な受け入れ体制とボランティア精神で、「先生」として生徒と向き合い、英語を通して日本の良さを伝えることが出来ました。この経験から、「学ぶ」ことの大切さや「教育を受けられる」ことへの感謝を知ることができ、帰国後は教員免許がなくても「生徒」と関われる、「生徒」の役に立つ仕事をしたいという思いから、不登校の生徒が通う適応指導教室で働きました。

・やって行きたいこと、目指していきたいこと
 

今は結婚をし、中国生活をしながら、中国語の勉強に励んでいる毎日ですが、将来的には英語教育に携わりたいと考えています。私は夫の赴任で中国に住んでいますが、この赴任は、いつ日本に帰れるかが分からないのです。今、中国では、英語教育が盛んに行われ、目にするところに英語塾、英会話塾の看板があります。また、幼稚園などでも英語教育を取り入れるようになり、英語教育における授業が人気を呼んでいます。私は、頭ごなしの受験英語、暗記だけで終わる英単語勉強ではなく、踊りやゲーム、身近なところから、楽しみを通じての英語教育に取り組みたいと思っています。

聴くことから英語に馴染んでいった

英語と人生
K・Kさん (米国物流会社勤務)

大学卒業後、英会話学校講師、外資系家電メーカ販売、不動産販売会社を経て、MBA取得のため渡米。
95年に学位取得後、就労ビザで米国内日系企業に就職。97年に米国企業へ転職。5年間日本支社で勤務した後、再度帰米。
現在は、米国物流会社で日系メーカ営業担当として勤務。

英語に出会ったきっかけ

中学の頃、兄のSANSUIのステレオから流れてくる洋楽に惹かれました。
当時は、ロッドスチュアート、トト、ブルース・スプリングスティーン、ジャーニー等のアーティストが全盛。高校に入っても洋楽を聴き続け、FM雑誌を定期購読、レンタルレコード屋に入り浸り、店長さんの影響を受けソウルミュージックとユーロビートのファンになりました。大学に入り、バンドをやっている友人と出会い、ハードロックを嗜み、ジューダスプリーストのコンサートへ行ったりしました。その勢いで入部したESSでは、スピーチコンテストに出たり、舞台を踏んだりしました。3回生の夏、ゼミ教授のアドバイスでカリフォルニア州のバークレーでホームステイしました。それがすべての始まりでした。

英語取得に役に立ったと思うこと

学生の頃に趣味で聴いていた音楽や、ESSで習得した基本的スピーチスキルなどは役に立っています。社会人になった後も、夜中に放映しているアメリカドラマの副音声を録音し、通勤時間に聞いたりしていました。最初は音声だけなので何を言っているのかさっぱり分からないのですが、繰り返し聞いて、辞書で音と文字を合わせているうち、気がついたら聴けるようになっていました。映像がなかったことが理解しようとする欲望をあおったのだと思います。大学時代は時間があると、図書館へふらっと行って、米国大統領のスピーチのビデオテープなども閲覧していました。

聴くことから英語に馴染んでいった

中・高の英語の成績は中の上。大学で入部したESSや、3回生で行ったホームステイで生きた英語に出会い、目覚めたんだと思います。それに加えて、中学、高校時代に聴いていた洋楽がイディオムや口語に慣れさせ、社会人になってハマッた二ヶ国語ドラマもやはり聴くことが中心だったので、自然と「英語耳」ができたのではないでしょうか。

現在は

勤め先が米国企業であり、職務遂行のため、英語は必須になっています。上司もアメリカ人なので、メール、電話など殆ど英語を使っています。ビジネスシーンで必須の交渉、説得、プロジェクトマネージメントの表現を磨くべく、ラジオ、ケーブルチャンネルの討論番組等から使える表現を盗んでいます。また、こちらでもビジネスプロフェッショナル向けのスピーチ本やCDが多数あり、それらも活用しています。