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やってだめな方が、やらなくてだめな方よりずっと良いと思います

石坂拓郎(Takuro Ishizaka)さん(Cinematographer:撮影監督)

神奈川県川崎市生まれ。高2の夏に渡米、アリゾナ州にある高校に編入、大学に進学し、
写真を通じて映画に興味を持ち、Chapman University, School of Film & TelevisionのFilm Productionを卒業。
在学中に撮影監督(Cinematographer)に興味を持ち、その道を進む。 
現在、カリフォルニアのロサンゼルスにFrameworks Films Inc.を設立し、
そこを拠点として、日本、アメリカでCinematographerとして活動中。 現在、渡米19年目。

~英語との出会い~


英語に最初に一番触れたのは、歳の離れた姉が良く聞いていたQueenの曲だったと思います。 子供の頃からその曲が好きで、いつの間にか聴く曲のほとんどが、洋楽ばかりになっていました。 ロック全盛期のおかげもあったと思います。
日本盤のレコードやCDには、幸い歌詞カード(日本語訳)が付いて販売されていたので、それを見ながら歌詞を覚えたりしました。 そして、書いてある言葉なのに、口に出して歌われる時には省略されていることがあることを知りました。 歌は一番簡単に手に入れられる生きた英語だったと思います。 その後も、映画などのサントラを買ったり、映画メイキングの本を買ったりと、何となく英語に触れながら暮らしていたと記憶しています。

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中学二年の時に、夏の間だけ、カルフォルニアにホームステイをする機会がありました。 サクラメントでのホームステイを最初に、最後はロスアンゼルスのUCLAキャンパス内(カリフォルニア大学ロサンゼルス校の構内)の英語教室に通うプログラムでした。 初めての英語漬け生活でしたが、行く前に持っていた恐怖心などは、楽しさが吹き飛ばしてくれました。 これをきっかけに、アメリカへの留学を本気で考えるようになりました。
一度外の魅力に触れると、日本での日常がとても色のない物に思えてきて、アメリカに戻りたい気持ちが膨らんでいきました。 高校一年までは我慢したのですが、そこが限界で、ついにアメリカへ行く事に決めました。 以前行った、あのカルフォルニアに留学したいと思っていたのですが、ウェスタンの魅力を前面に出していたアリゾナの全寮制高校へ行く事に決めました。 そこは変った学校で、馬を毎日乗る事も出来る農場の中にある学校でした。

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~留学~

留学を決める時に、一番不安に思うのが言葉だと思います。 少なくとも、私はそうでした。しかし、実際に行くと、人間の違い、文化の違い、常識(あたりまえ)の基準の違いなど、言葉以外の多くの「違い」に気づかされ、そして悩まされます。 
高校に留学して初めての年に、住んでいた寮の部屋で、次々と物が無くなっているのに気づきました。 時計やトラベラーズチェックなどです。 どこを探しても見つからないため、おかしいなと思っていたところ、学校の先生から、「君のトラベラーズチェックを生徒の一人が、学校内の銀行で現金化しようとして捕まった」と言われました。 捕まったと言ってももちろん、先生にです。 その後、先生達による学校内の裁判のようなものが行われ、まず、取られたトラベラーズチェックを見せられました。 そこには、なんと自分の部屋の隣の生徒の名前が書かれていました。 本当は、使用前に書いてあるサインと同じサインを、下の部分に、使う時点で書かなければいけないのに、なぜかそこには上部に書かれてある自分のサインではなく、盗んだ生徒の名前が書いてありました。 それを見て、あきれて物が言えませんでした。 しかし、さらに驚いたのは、先生に、「きみもそんな盗りたくなるような場所に置いておくのはいかんよ」と注意されたことでした。 アメリカでは、自分の事は自分で守るという意識が国民の中に根強くあります。 極端な一例ですが、常識というのは、国が違うとこうまで違うのだなあと感じた瞬間でした。

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アリゾナの高校に行き始めてしばらく、ESL(English As second language)のクラス を取りながら普通の授業も取っていました。 歴史の授業を取った時に、日本で受けていた授業との大きな違いに気づきました。 ほとんどのテストがエッセイだったのです。 日本だと、名前や年号、地名などが主に記憶する対象となりますよね。 単語の穴埋め的な問題が多いと思います。 しかし、アメリカのテストのほとんどが、質問に対して、その時代の人名、年号、重要な出来事を織り交ぜながら、自分の文章で説明しなければならないものでした。 そのため、必然的に歴史の流れを理解していないと文章には出来ません。 おかげで、名前や数字だけを記憶するのではなく、物事が起こった流れとともにそれらも記憶するようになりました。 
こういった、一人一人の物事の解釈をチェックする、「ただ単に単語を覚えさせるのではない、考えさせる教育」が自分にはとても合いました。 日本にいる時にはつまらなかった授業が、知識を得る楽しい時間に思えるようになりました。
学校での友達作りも、最初は簡単なことではありませんでした。 恐らく、留学生とアメリカ人の生徒の双方にとって、意思疎通が容易ではなかったからだと思います。 アメリカ人にとって、当たり前に話せる言葉がしゃべれない外国人に対して、どういう接し方をすればよいのか分からないのが当然で、優しくしたり、からかったりと、探りながら接しっていき、ゆっくりとお互いの関係が築かれていきます。
留学する場所によって、扱われ方は結構違うようですが、自分はラッキーだったのではないかと思っています。 適度にからかわれて、適度に相手にされ、次第に友達も増えていきました。 しゃべれなくても、しゃべろうとするのが一番大事で、間違えるからしゃべりたくないという考えでは、全くうまくなりません。 ただし、みんなが最初に覚える悪い言葉は、使う場所、使っていい場面を判断出来る位には、理解しておいた方が良いですね。 知らないで大恥をかくことはしょっちゅうでした。

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~日本・日本人~

留学を通して得られた多くのことの中で、最大の成果は、自分のアイディンティテーを再確認させられたことでした。 日本人であるということです。 日本は、日本人やアジア人が多く、白人や黒人に囲まれて育ってきた人は少ないでしょう。 周りに居るのが日本人で当たり前の生活です。 ところが、一度外に出れば自分が外国人なのです。 この当たり前のことって、意外に意識していませんよね。 アメリカ社会にいれば、自分はあくまで日本人なのです。 
色々と日本について、質問攻めにあいました。 その時に、日本について、あまりにも自分が無知なことを知りました。 自分が住んでいた国、一番知っているはずの日本なのに、アメリカ人のいろいろな質問の中で、答えられないことが数多くありました。 「禅」ってなに? 「能、歌舞伎」を簡単に説明出来ますか? 意外と生活の中で意識してこなかった自分の国に関すること、授業をつまらないと思っていた歴史の大切さなどを再認識しました。 外ばかりに目を向けていたためでしょう。 しかし、これも外の世界に出て、初めて認識できたことだと思います。 
スペイン人、アメリカ人、フランス人、ドイツ人など、みんな自国の自慢をする人が多いのです。 その中にいると、日本人として自分の国の自慢出来る部分などを考えさせられます。 ただひたすら出て行きたかった日本、その魅力にようやく気づかされたのです。 日本から出たことの一番大きな成果は、もしかしたらこれかもしれません。 問題も魅力も、ちょっと離れた立場で、外からゆっくり眺めたり、他の物と比べてみると、はっきり見えてきたりします。

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~仕事~

現在、映画のカメラマンという職業を通して、多くの国を訪れる機会があります。 タイ、中国、ブラジル、ロシア、日本、アメリカなど、どこの国に仕事に行っても、それぞれの国の人が、その国の常識やルールを押し付けてきます。 他国に入っていく人も、自分の価値観、ルール、常識を持ち込みます。 そんな時、偏見の目で見る前に、その国の風習や言語などを色々な角度から判断して、それに合った対応で人に接して行く方法を選ぶことができるようになりました。 
自分の常識を一方的に押し付けて行くやり方では、映画は作れません。 多くの人が関わり、決して一人では作れないのがまた魅力なのでしょう。 また、映画は国や町の構造、法律などで撮影のやり方が大幅に変わってきます。 決して一つのルールが、すべてに当てはまらないのです。 そのため、みんなが話し合い、良いところを学び、悪いところを知るという作業が必要です。 
このとき、英語のおかげで、自分の言い分だけでなく、相手の良い部分も等しく判断出来るのは非常に大きな利点です。 たとえ、英語圏で生まれ育っていない人でも、英語をしゃべれる人は多くいます。 通訳を通して聞く意見は、少し和らげられたり、無駄なことを省かれたりしています。 これは、どんなに優秀な通訳でも、起こりえるのです。 英語が出来ると直接相手と話せる機会が増えます。 すると、ずっと物事がスムーズに進むのです。 洋画を英語で聞くのと吹き替えで聞くのでは全く違うのと同じです。 英語は道具です。 使い方は人それぞれですが、うまく使えば、本当にこれ以上の道具は無いでしょう。 高校の時に留学してから、あきらめずに続けて英語を身につけておいて、いまさらながら、本当に良かったと思っています。

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これから英語を学ぶ人、学んでいく人は、とにかく英語を聞いたり、しゃべったりする機会を増やしていく努力をしてみてください。 完璧でなくても良いのです。 しゃべりだす事が一番大切だと思います。 英話のネイティブの先生に、自分が抱いた単純な疑問からで良いと思います。 どこから来たのですか? 日本にはなぜ来たのですか?など。 とにかく質問を考え、その答えを理解しようとすることが一番の勉強です。 英語は、コミュニケーションの方法の一つですが、一番多くの場所で使うことができるものだと思います。 さらに最初の一歩としては、一番入って行きやすい言語だと思います。 グローバル化が進んでいるこの世の中では、日本にいても使う機会が益々増えていくと思います。 日本にいるからいらないと思わずに、是非、頑張って身につけてください。 新しい世界が開けます。
映画、映像の世界に進みたい人は、なおさら英語を身に付けて下さい。

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今、一国だけでなくいろいろな国に出て行って働ける機会がどんどん増えています。 海外の映画、コマーシャルが日本に来たり、日本のコマーシャルが海外のあらゆる場所に行っています。 海外との共同制作なども頻繁に行われています。 ネットなどの発展もあり、本当に世界は狭くなってきています。 そして、現実的に共通言語として一番使われているのが英語です。 英語が分かっていて、絶対に損することはありません。 せっかく良い作品に参加する機会があっても、コミュニケーションが取りにくいということだけで敬遠されたり、採用されなかったりもします。 やはり直接コミュニケーションが取れるということは相手の安心にも繋がります。 プロデューサー、役者、監督、カメラマンと、どの職業に就いても同じです。 コミュニケーション手段は、多いのが一番です。 色々学びたい人にとっても、日本語訳されていない英語の本などから、情報を得て、有効に使うことが出来ます。 日本のスタイルを外に広めたい人、日本の外のスタイルを学んでいきたい人、どちらも英語をしっかり身に付けることが、大きな出発点となることでしょう。 英語に関しても、なりたいと思う映像の職業に関しても、後悔しないように、まずやってみる、チャレンジしてみることが最も大切だと思います。 「やっとけばよかった」が、一番悪い後悔の言い訳ですよね。 やってだめな方が、やらなくてだめな方よりずっと良いと思います。 勇気を出して、まず第一歩を踏み出しましょう!

だって人生を素敵にするための趣味だから

河合 省兵 (Shohei Kawai) さん (クリエイティブの企画・プロデュース)

生年月日:1975年10月14日  出身地 :東京  血液型 :AB型

住んだ街:京都(小学校)、木更津(中・高校)、オーストラリア(英語学校)、アメリカ(短大・大学)

経歴
東北新社:CM制作 プロダクションマネージャー
デザイン会社:パッケージ、SPデザイン制作 アカウントエグゼクティブ
リヴァーライズ:クリエイティブ企画・プロデュース 代表取締役

お仕事:クリエイティブの企画・プロデュース、人を繋ぐこと

好きな言葉:経年優化(時が経つにつれて良くなるモノゴト)

今よりもほんのちょっと人生を素敵にするために


僕は英語が少し出来る。
少しって、どれくらいか。
海外旅行に行っても困らない、
海外生活もほぼ困らない、
街で道を聞かれても答えられる。
映画も恋愛ものならそこそこ分かる。
それぐらい。

そんな僕が英語と出会ったのは中学校の英語の授業だったと思う。
「Hi! How are you?」で始まる英語の教科書。
苦手だった。

僕が通っていた中学校は、帰国子女を積極的に受け入れ英語教育にも力を入れる学校だったが、
元々勉強嫌いの僕は英語が苦手どころか将来的な英語の必要性さえ感じていなかった。
もちろん勉強にも身が入らない。
テストはいつも赤点、40点以下だった。
英語の教科書で覚えているのは、「Jumbo」「Hbari」というスワヒリ語くらい。
それほど英語に対して無関心だった。

そんな僕が33歳の今、英語が少し出来るのは何故か。
それは多分アメリカに留学したからだと思う。

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英語が出来た方が就職で優位だとか、
外人とコミュニケーションをとりたいとか、
そんなことを思っていたわけではない。
単にアメリカ映画が好きで、映画を作りたいと思い、留学した。
それだけだ。
英語に対するカッコイイ志なんて何も無かった。

オーストラリアやアメリカで通った学校の授業はもちろん英語。
当たり前だが、日常で必要とされるコミュニケーションも殆ど英語だ。
「結局留学しないと英語なんて出来るようにならないじゃないか」
そう思う方もいるかもしれないが、それは全くの間違いだと思う。
僕の住んでいたアメリカのロスアンゼルスという街には日本人が2万人もいた。
アメリカにいながら日本語だけで生活することが容易な街だった。
結局のところ自分の意識次第。
どこで学ぶかなんて関係ないように思う。
要は日本でもアメリカでも、いかに英語に触れる機会や環境を意識的に作るかだと思う。

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ところで、英語を身につけることって本当に役にたつのだろうか?
大人になって社会に出て、働いたり、デートしたり、食事したり、買い物したり・・・
海外旅行に行くと「あぁ、英語がもっと出来たらなぁ」なんて思ったりもするのだろうけど、
長い人生の中で英語を必要とされる時間なんてごく僅かでしかない。
だったらどうして英語を学ぶのか。

そもそも何かに役立てるために英語を身につけるという発想が違うような気がする。
英語というのは趣味みたいなものだと思う。
スポーツしたり、映画観たり、読書したり、お酒飲んだり。
要は人生を今よりもほんの少し楽しいものにする。
そのためのものだ。

スポーツだって、映画だって、読書だって、
全ては誰かと出会うことで何かを学んだり、何かを感じたり、新たな情報を得たりする。
それが人生をちょっと素敵にする。
英語も同じ。

身につける過程でも、見につけてからでも、必ず人生を少し素敵にしてくれる。
もし少しでも素敵な人生を望むなら、英語を始めてみるのは良いかもしれない。
すぐに習得は出来ないだろうけど、それが楽しい。
追いかけることの楽しさや、
手に入りそうにないものを手に入れる喜びは皆知っているはず。
大変な自分とか頑張っている自分が好きなんて気持ち誰にでもあるんじゃないかな。
英語を身につける過程で得たものや、身につけてから得たもの。
参考までに僕の話をしてみよう。

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アメリカの大学に入り、日々英語というハンディを背負いながら格闘した多くの授業。
そこで得たものは、共に悪戦苦闘した友達との出会いや絆。
そして英語の出来ない僕を助けてくれた皆の優しい気持ち。
「あぁ、色んな人に支えられて生きているな」とか
「努力してるといいことあるなぁ」とか感じたものだ。
そんな経験は、以前よりもほんの少し僕を優しくさせたと思う。

英語を身につけてから得たもの。
それは「機会」や「選択肢」だ。
例えば、英語が出来るというだけでアプローチ出来る人や会社が増える。
英語が出来ない人にはこない仕事や人に出会える可能性がある。
そういうことだと思う。
必ずしもそれを受け入れる必要はないが、
選べるということは贅沢なこと。
それってちょっと素敵でしょ?

さて、映画が好きでアメリカに留学した僕は今何をしているか。
日本で広告関係の仕事をしている。
そう。
アメリカでもなければ、映画でもない。

じゃあ、アメリカ留学や英語を身につけたことはムダだったか。
答えは「NO」だ。
先にも述べたように、英語は僕の人生を少し素敵なものにしてくれた。
自分の人生が素敵かどうかは、
「どこに住むか」とか「どんな仕事をしているか」ということだけではない。
「どれだけ素敵な経験を沢山したか」とか「どれだけ沢山の思い出を作れたか」だと思う。

そういう意味で、アメリカ留学や英語との出会いは、
僕にとって素晴らしいものだと言える。

もし英語を学ぼうかどうか迷っている人がいたら、是非一歩踏み出してみて欲しい。
途中でやめたって、全然上手くならなくたって、きっと何か人生を素敵にしてくれる何かになるはずだから。

頑張らないで楽しんでほしい。

だって人生を素敵にするための趣味だから。

パスポートさえ持っていない人がいますよね。 私はすごくもったいないと思うんです

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パスポートさえ持っていない人がいますよね。 私はすごくもったいないと思うんです

高麗 正子(Masako Korai)さん (ハミルトンアイランド、ジャパニーズゲストサービス・スーパーバイザー)

東京出身。 現在オーストラリア、グレートバリアリーフの中心にあるハミルトンアイランドにて
ジャパニーズゲストサービス・スーパーバイザーとして活躍中


何事も新しい事にチャレンジする事が好きで、小・中学生の頃はピアノ、水泳、油絵、書道、塾とたくさんの習い事をしていました。 
特に、中学校ではバスケ部のキャプテンを務め、忙しい日々を送っていました。
初めての海外は、小学5年生の時で、家族旅行で行ったオーストラリアです。 それからオーストラリアが大好きになり、
中学生の夏休みには3週間の短期留学プログラムに参加しました。 現地ののびのびした環境や、学生の生き生きとしている姿、
中学校から科目選択ができて、やりたいことや自分の特技をのばすことができるゆとり教育を体験し、
「海外の学校で学びたい!」と強く志願して、高校からオーストラリアの首都キャンベラに留学しました。

~ 現地の学校に入学して ~
まず、自分の英語力のなさにびっくりしました。 中学での英語の成績は良いほうでしたが、中学で3年間も勉強したのに、
最初は話しかけられても「???」でした。 よく、日本人は文法に強いといいますが、逆に言うと、
リスニングや会話が全くできないのです。他の英語圏でない先進国と比べても、「日本人は英語が話せない」というイメージが
付いています。 もっと日本にいる間に、使える英語を勉強しておけば良かったと後悔しましたが、後悔先に立たず。
それから必死に勉強しました。 

1年間、ESL(English as Second Language) という英語を母国語としない人達の為のクラスで勉強をしました。 
わからない単語はまずノートに書きとめておいて、後で人に聞くか、調べるようにしていました。 学校は色々な国籍の人達がいて、
異なる文化に触れることができ、とても刺激的でした。 2年目からは現地の高校生と同じ内容を勉強しはじめ、
高校卒業後はオーストラリアの首都にあるキャンベラ大学に進学しました。 もともと旅行が大好きな私は、
将来、観光業につきたいと観光マネジメント学科に入学。 
4年間の大学生活は楽しい事ばかりではなく、辛く大変な日々も多々ありましたが、
あの時の生活を乗り越えていなければ、今の私はないと思っています。

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~ 何故英語を学ぶことが必要なの?~
「時々、日本から一度も出たことがない人や、パスポートさえ持っていない人がいますよね。 私はすごくもったいないと思うんです」

私は幸運にも、学生時代の半分をオーストラリアで過ごし、大好きなオーストラリアと日本の架け橋になれたらと、
今の仕事を選択しました。 私が現在住んでいる所はグレートバリアリーフの中心に位置する、一周16キロの離島です。
空気がとても澄んでいて、青い空、それよりも青い海、そしてフレンドリーなオージー(オーストラリア人)達が住んでいます。
この島も含め、「もっとオーストラリアの良さを日本人に知ってもらいたい!」「たくさんの自然を肌で感じてもらいたい!」と思い、
この仕事を選びました。 現在、ホテルのフロント業務をはじめ、日本人のお客様のお迎えや、島内観光(ガイド業務)、
通訳や翻訳業務をこなしています。 島は個人の私有地で、島内が1つのテーマパークのように繋がっているので、
日本人のお客様に変わって島内のホテルやレストラン、ツアー会社と英語でコミュニケーションをしています。

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お客様から数多くのコメントを頂戴しますが、大半のお客様は
「英語がわからなくてもフレンドリーなオージー達がやさしく接してくれた。」「日本人スタッフがいたから安心して旅行が楽しめた。」
「しかし、今度来るときは現地の言葉で自らコミュニケーションができるようになりたい。」とおっしゃって下さいます。
移民の国、オーストラリアでは、本当に色々な国の人との出会いがあります。 そこから異文化を学び、視野が広がり、
日本に閉じこもっていたらできなかったであろう新たな発見をたくさんすることができます。 
日本の人口、約1億2700万人のうち、2008年に観光、ビジネス、その他の目的で海外に行った人は、1500万人を越えています。
最近では、ワーキングホリデー制度も充実し、ワーキングホリデーでオーストラリアへ渡航する青年は、
全ワーキングホリデー制度利用者の半数以上、年間1万人以上もいるそうです。 私自身も大学卒業後、しばらく日本で働き、再度ワーキングホリデービザで渡豪しました。 

世界中の国と友好関係を築き、好影響を与えている日本に生まれ、日本人として育ったことをとても誇りに思っています。 
そんな日本人だからこそ、皆様にも世界共通語の英語、"使える英語"を学び、そこから外にも目を向け、色々なことを身につけていってほしいと思っています。 
人生何事もタイミングだと私は思います。 
どこで何をしていようが、英語を勉強したい、もっと身につけたいと思った時が、最初の一歩ではないでしょうか?
その気持ちを大切にし、今の自分にできることを実行して、そこから可能性を広げていってほしいと思います。

真の国際人として社会で生きていく感覚

畑山理沙(Risa Hatayama)さん (バンクオブアメリカ・メリルリンチ/ニューヨーク本社)
 
高知生まれ、大阪育ち。
高校卒業後、オハイオ州立大学であるBowling Green State University に入学。 
卒業後、日本へ帰国し、米系会計監査法人アーンストアンドヤングにて外資系証券会社の会計監査担当。
その後、メリルリンチ日本証券に転職。 2008年4月からメリルリンチニューヨーク本社へ籍を置く。
(2009年1月より合併の為バンクオブアメリカ・メリルリンチ)

【英語=嫌い】


私の中学・高校時代を知っている友達は、まさか私がアメリカの大学に行き、英語を使う職業に付き、そして今ではアメリカに住んでいるなんて誰が想像したことでしょう。 そう、英語は全く得意ではありませんでした。 覚えても覚えても、覚えきれない単語の数々、どんどん難しくなっていく文法、まねの出来ない発音など。 はっきり言ってしまえば、私にとって英語は全教科の中でも、大嫌いな科目でした。

高校2年生の夏休み、1ヶ月間、アメリカのシアトルでホームステイをするというプログラムがありました。 英語嫌いの私にとって、アメリカに行くことは全く興味ありませんでした。 それよりも、友達と1ヶ月も一緒に旅行ができるというところに惹かれた私は、英会話の心配など毛頭なく、どうにか親を説得してそのプログラムに参加しました。 そこで私の人生を変える衝撃的な出来事があるなんて思いもせずに…

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【人生の転機】

シアトルでは生徒に一人ずつホストファミリーがつきました。 私の家族はマミー、ダディー、当時12歳のお兄ちゃん、9歳の妹の4人家族でした。 会ったその日から、子供たちとは意気投合し、マミーもダディーも優しくて、気楽なとっても居心地がよいファミリーでした。 でも、そこには大きな難題があったのです! 家族の言ってることが一切わからない、自分の言いたいことが一言も言えないのです。 そう、私たちは一切コミュニケーションがとれなかったのです。 とりあえず、ジェスチャーと笑顔で毎日を乗り切っていました。 それでも1ヶ月間、本当に楽しい時間を過ごすことができたため、私の帰国の際には5人とも泣き続けていました。 その時に、あー、この人たちに自分の胸の中の感謝の気持ちを伝えられたら、どんなにいいだろうと思ったのです。 そして帰国後、私はあの素晴らしい家族ともっと沢山いろんなことを話せるように、英語を習得しようと心に決めたのでした。

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【アメリカ留学】

高校2年生の2学期、日本に帰国した私は、周りが国内の大学受験を本格的に始めようとしている中、アメリカの大学に行くことを決めました。 それから苦手だった英語を一生懸命勉強して、高校卒業後にオハイオ州のボーリンググリーン州立大学に入学しました。 渡米した当初は思っていた以上に英語がしゃべれず、聞き取れず、毎日、大学の授業に行っては途方に暮れていました。 いつも授業の後、教授の後ろをついて行って、宿題は何か、どこを重点に勉強したらいいかなど、個人指導をお願いする始末。 しかも片言の英語でです。
しかし、そんな私でも、2年生を過ぎた頃には学生生活をエンジョイできるほどまでに英語が上達してきました。 一緒に住んでいたアメリカ人のルームメイトや寮の周りの友達のおかげで、日常会話やアメリカで暮らすという常識を、この時期にたくさん学びました。 大学では会計学を専攻し、一生のうち、もうないであろうというくらい勉強しました。 毎日図書館に通っては夜中まで勉強する平日、そして週末はおもいっきりパーティに参加するという、なんとも充実した4年間。 私の人生、価値観を形成するにあたって、本当に大切な大学生活でした。 卒業式にはシアトルのホストファミリーもお祝いに来てくれて、念願の高校生の頃に話せなかった話をたくさんすることができました。

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【真の国際人】

大学卒業後は日本に戻り、会計監査法人で働いた後、今のメリルリンチに転職しました。 日本にいるのに、とてもグローバルな環境で、ミーティングやメールはほとんどすべて英語です。 女性であることや社会経験の少なさや多さなどは全く関係なく、社員にたくさんのチャンスを与えてくれるすばらしい会社でした。
私はここで、自分の意見を公共の場ではっきり述べる自信を身につけることができました。 日本のメリルリンチで働いているうちに、ぜひ本社のあるニューヨークで本場の金融を見てみたいと思う気持ちが強くなり、上司に相談したところ、アメリカの本社に働きかけてくれて、2008年4月から念願のニューヨーク勤務が始まりました。 私は今、ニューヨークの金融街、ウォールストリートに近い、ワールドファイナンシャルセンターで、世界各国から集まった社員らと働いています。 私の同僚たちは、アメリカ、ヨーロッパ、インド、ジャマイカ、中国、プエルトリコ、メキシコ、ロシアなど、本当に多国籍です。 そしてこの多国籍な会社の共通語は英語です。 いろんなアクセントのついた英語がオフィス中に飛び交っています。 文化、宗教、教育環境など、全く異なる私たちを結びつけ、同僚としての強い絆を築けているのは英語なのです。 私はニューヨーク転勤後に改めて、高校生のあの時期にアメリカの大学に行くことを決意して、本当に良かったなと思いました。 今こうして英語を話せ、国際人として働けていることも、高校時代に英語でのコミュニケーションの大切さを痛感したおかげだと思います。

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【最後に】

今、英語を勉強している学生の皆さんに知っておいてもらいたいことは、英語は単なる受験教科のひとつではないということです。 文法や単語など、覚えることもたくさんありますが、英語を習得するということは、それ以上のものをあなたの人生にもたらしてくれます。 自分の価値観が大きく変わり、自分の可能性がどんどん広がり、真の国際人として社会で生きていく感覚は、本当にすばらしいものですよ。

饒舌である必要はない、ただ意思を伝えるだけでいい

AIAI(あいあい)さん (映像製作)

 
学習院大学法学部政治学科卒業
チャップマン大学大学院映画製作専攻修了(MFA)

1.仕事について

私は、日本のテレビ番組制作会社でプロデューサーのアシスタントをしていました。仕事の内容は、リサーチや取材、予算やスケジュールの管理、ロケ準備、契約書類の作成など、制作全般を通じて多岐にわたります。アメリカで映画製作の勉強をしましたが、日本ではテレビ業界の求人が多かったのでNHKやテレビ朝日などの番組に携わってきました。事前に想像していたより英語を使用する仕事はなく、忘れてしまうのではないか不安で、海外取材などの機会に自分の英語力を確認しては、一喜一憂していました。、情報番組を担当することが多かったので、英語の文書を読む機会を積極的に持つようにし、せめて感覚だけは保つ努力をしました。仕事にはやりがいを感じていましたが、もっと英語を使いたいという気持ちは強くなるばかりでした。
 私がアメリカから帰国して、そろそろ10年がたとうとしています。帰国してすぐに、アメリカ映画「ロスト・イン・トランスレーション」のスタッフとして働いた頃は、まだ日本のエンタテインメント業界は海外とのネットワークが確立していませんでした。しかし、この10年弱の間に、海外との関係は深まっています。例えば、日本国内で撮影される外国映画が増えたり、法律や政策によって二次使用の市場が拡大したり。10年前にアメリカで学んだことが、ようやく日本で実現し始めたと感じています。以前は、アメリカの常識が日本の常識になるのに20年かかると言われていましたが、今では10年もかからないのですね。
 これから制作の現場や市場が海外へ広がるにつれて、日本のエンタテインメント業界における英語の有用性は高まると信じて、私は、未来に向けえ新たな勉強を始めたところです。というわけで、現在一時休業中です。

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2.英語が話せるようになるまで

①現在の私

 アメリカを離れて10年近いので、とっさの会話などは少し心もとなくなっていることは否定できません。この点は、努力の必要性を感じます。しかし、一度身に付けた「読む力」は容易には失われないように思います。英語が読めるということはありがたいことで、世の中の論文・文献を含めてあらゆる情報は、古いことも新しいこともほとんど英語で書かれています。英語が読めれば、世界で何が起きているのかをいち早く知ることも可能です。
 私が、英語を読むときに気を付けていることは、一度読んだだけで理解したと思わず、同じ情報を別の視点で書いている物を読み、同時に日本語でも同じ情報を読み、相違点を見つけることです。例えば、小説なら原書と日本語訳を数冊読み比べると、訳者によって訳し方が異なることに気づきます。そこで、なぜ違うのかを同義語辞典、英和辞典、広辞苑などを使って調べてみるのです。同じように、ニュースなら、それが海外ではどのように伝えられているかを各国のウェブサイトで検索してみます。日本の情報だけではわからない部分や、日本人とは違う視点を知ることができ、世界についての考察を深めることができます。
 このように今も意識的に英語を学び続けていますが、実はそうした習慣は大学受験の勉強で身に付けたものでした。思い出せば、受験は精神的にも体力的にも辛いものでしたが、英語と真剣に向き合えた貴重な経験でした。

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②日本の大学へ

 私は、幼稚園にあがる頃に英語教室に通い始め、早い教育を受ける機会に恵まれました。しかし、同年代の友達よりも少し話せるということに慢心して、自分から積極的に学ぼうとはしませんでした。
 高校3年生になって進路を決めなければならなくなったとき、「アメリカに行きたい」と強く思いました。アメリカの映画と文学が特に好きで、映画の知識と読書量は誰にも負けないと自負していました。私たちは、戦後もっとも人数の多い世代で、バブル崩壊後の就職氷河期という時代でした。社会が内向きのムードで溢れていたから、映画で見ていた「こことは違う世界」に憧れたのかもしれません。「いつか海の向こうの世界を見に行くんだ」という心ひとつで、受験勉強を始めました。一日何時間も英語の勉強をする毎日を、一年間も続ける経験は、もう二度とないでしょう。仕事や生活のことを考えずに勉強だけに没頭できるのは、親の支援が得られる若い時だけだとつくづく思います。そしてそれは、とても幸運なことだとも思います。

 大学生になってからは、週に一度アメリカ人の先生に英会話のレッスンを受けていました。受験勉強で覚えた英語の正しい発音や場面ごとの使い方を習い、また新しく覚えなおすというサイクルを繰り返しました。大学卒業後にアメリカ留学して、特に苦労もせずにすんなりと英語で会話ができ、最初の授業から理解できたのは、覚えたことを、実際に使ってみるというサイクルを根気よく続けたおかげだと思います。

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③アメリカ留学

 大学院では、英語を学ぶのではなく、英語で映画のことを学んでいることが楽しくて仕方ありませんでした。二年間の大学院生活では、学生映画にできるだけ参加し、自分でも友人たちと共同で数本の映画を製作しました。カリフォルニアという土地柄か、映画学部には、アメリカ人だけでなく中南米やアジアからの留学生が多数在籍していました。私は、メキシコ、エクアドル、ブラジル、韓国、台湾、シンガポール、タイなどからやってきた若者たちと親しくなり、彼らの映画に参加しました。今はみんな母国に帰り、散り散りになってしまいましたが、映画作りの夢の下に、それぞれの国のアクセントで、思い思い好きなことを話し、笑い過ごしたあの頃を懐かしく思い出します。英語が下手だったり、言葉を知らなかったり、発音が悪かったりということは関係ありませんでした。映画が好きで、心が熱いことが、なによりも大事にされたことでした。
 私が映画を製作した時のことをお話します。撮影を始める前には、キャストのオーディションをして、撮影クルーを集めなければなりません。アメリカには映画専門の求人誌があり、そこに募集をかけて人を集めます。私は、撮影クルーは学校の友人たちにお願いしましたが、キャストはプロの役者を募集しました。すると、無報酬で過酷なスケジュールの学生映画なのに、年齢、性別を問わず、チャンスを求めて何百人も応募して来ました。私は、彼らの真剣さに驚き、この情熱がアメリカのエンタテインメント業界を支えているのだと、目の当たりにした思いでした。

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 私はプロデューサーという立場ですから、何十人というキャストやクルーを率いなければなりません。彼らの目は私に注がれていて、私はみんなに、「私と監督の作りたい映画はこういう物で、あなたにはこれをして欲しい、あれはして欲しくない」ということをはっきりと伝え、違っていたら正し、危機にはその場で適切な判断をしなければなりません。そんなときは、授業ですばらしい議論をしたり、優秀なレポートを書いたりした英語力は全く役に立ちませんでした。最も役に立ったのは、明確な意思を持って、適格な判断を伝える、シンプルな言葉ばかりでした。私が撮影を終えることができたのは、間違っても、悩んでも、苦しんでも、じっと私の次の言葉を待ってくれたキャストやクルーたちのおかげだと思います。饒舌である必要はない、ただ意思を伝えるだけでいい。生きていくために本当に必要な言葉は案外少ないのかもしれません。英語に限った事ではありませんが、言葉は、感情や理性と結びついて初めて自分のものとなり、他人の心に伝わるのだと知りました。もちろん、これまで覚えてきた英語は、レポートや企画書を書くときには大いに役に立ちました。卒業論文の作品で、私の書いた企画書を読んだ担当教授が目を潤ませたときは、ずいぶん自信がついたものです。
 修了後は、テレビのインタビューや翻訳を請け負ったり、アメリカのドラマを日本にライセンスする手伝いをしていました。日本に帰国するかどうか悩みましたが、結局、帰国を選び現在に至ります。3年間のアメリカ留学でしたが、24時間を英語で過ごすという環境は、英語が話せるようになるために必要な時間だったと思います。
 

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3.英語をこれから学ぶ人たちへ

文章を読むのにもっとも必要なのは読解力です。母国語である日本語をしっかり見に付けて感受性を磨いて下さい。
会話に必要なのは、相手に対する興味と伝えたい心です。考えや主張と言ってもいいでしょう。
他人に興味を持って下さい。そしてまず自立を目指して下さい。
それから、忘れがちですが身体も鍛えてください。自律・自尊の自立した人生を送るには、苦痛に耐えうる体力が必要です。
 英語が話せたら、どこへだって行けるって思わない?私は、そう信じて、まだまだ頑張ります。