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出会いによって自分自身を成長させていきたいと思っています

Yuko N.さん (レコード会社)

広島県広島市生まれ、東広島市育ち。
7歳の時、父親の仕事の都合で渡米し、4年間、現地の小学校に通い、小学5年生で日本へ帰国。
高校受験を控えた中3の夏に、留学という形で再び単独渡米。 合計11年のアメリカ生活を経て、大学卒業を期に日本へ帰国し、現在レコード会社にて国際的に活躍中。

田舎で育った一人っ子ということもあり、基本的に一人で遊ぶことの多かった私は、地元の小学校への入学後もなかなか周りと打ち解けることができずにいました。 食べるのが人一倍遅かったので、お昼休みも返上して一人教室で必死に食べていたのを覚えています。 昼休みに友達と外で遊んだ記憶はほとんどないほどです(笑)。
そのようなマイペースな日々を過ごしていたある日、母親から突然、「アメリカに行くことになった」と聞かされました。 当時7歳だった私は、状況にピンとこず、「へ~」という精一杯の感想を無表情に答えた気がします。
皮肉なもので、出発までの数ヶ月で友達も徐々に増え、登校最終日には私に内緒で企画してくれていたクラスのお別れ会で、みんなが歌を歌ってくれて、プレゼントとして1本のテープをもらいました。 家に戻って早速テープを聴いてみると、クラスメイト一人一人からコメントが入っていて、涙が止まらなかったのを今でも覚えています。 このとき、初めて友達のありがたみを実感しました。

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広島の田舎しか知らない7歳の少女が、突然、広すぎる空と青すぎる海に包まれた南カリフォルニアに上陸しました。 言葉も何もかもわからない異国の地に慣れるのは、簡単なことではありませんでした。 最初の半年間、ESL(英語を母国語としない人に英語を教える)の学校へ通っていました。 そこには様々な国から来た子供たちが、英語を学ぶことを目的に勉強していました。 最初の頃は毎日時計ばかり眺めていて、とにかく、早く日本語の話せる家に帰りたいと泣いてばかりいました。 しかし、そこは自分と同じ境遇の子達が集まる場所だったので、自然と友達もでき、最初は身振り手振りだったコミュニケーションも、言葉だけで気持ちが通じ合えるほどになっていきました。
2年生になると同時に現地校へ通い始めました。 英語は会話ができる程度には上達していたものの、やはりまだまだ不安でいっぱいでした。 英語を第二外国語としているのは自分だけ。 そう思うと逃げ出したくもなりましたが、「もう前に進むしかない」と小さいながらに決心しました。 
初日の席順は名前のアルファベット順でした。 苗字が「N」から始まる私は、「P」から始まる子の隣に座りました。 この子との出会いが私の人生を大きく変えることとなったのです。

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【ステイシーとの出会い】

私の隣に座ることになったのはステイシーという子でした。 私たちは急激に仲良くなりました。 ステイシーはアメリカ人にしては内気な子で、アメリカ生活の半年で少し強くなった私としては、非常に心地よい感じでした。 私たちは、学校でも毎日一緒、放課後もどちらかの家で遊ぶ日々を送っていました。 私の英語が急激に上達したのは彼女のおかげです。 週末は日本語学校へ通い、そこでは日本人、平日の現地校ではすっかりアメリカ人になっていました。 きっとこの頃は、英語で夢を見ることも普通にあったと思います。 しかし、4年生になったある日、日本へ戻ることが決まりました。

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【カルチャーショック】

4年間のアメリカ生活を経て、内気な少女は、すっかり自分の意見をはっきり言える活発な女の子へと成長していました。 
渡米前に通っていた学校とは別の学校へ編入することになりました。 「帰国子女の転校生」という看板を背負い、休み時間には「英語をしゃべって!」、「アメリカってどんなとこ?」と質問攻撃。 それに自信満々に答えていた私をあたたかく受け入れてくれる子ばかりではありませんでした。 この学校で過ごした2年間は、私にとって楽しい思い出と同じくらい辛い思い出もあり、この経験が今の私を形成した、と言っても過言ではないと思っています。
自分の意見をはっきり言う事が必ずしも正しいことではないのだ、と学びました。
中学へ進学した私は英語が話せるということを自然と隠すようになっていました。

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【再びアメリカへ】

中学3年生の、周りが受験モードに突入していた頃、私の人生を大きく変える出来事がありました。 小学生の頃仲良くしていたステイシーとは帰国後も文通し、夏休みにはお互いの家に遊びに行ったり、遠距離ながら友情の絆を育んできていました。 そんなある日、ステイシーのお母さんから一つの提案がありました。
「ステイシーと一緒に高校に通わない?」
両親に背中を押されたこともあり、私は留学という形で再びカリフォルニアへ行くことを決意しました。

そして、現地の高校へ4年間通い、大学へ進学しました。

高校の4年間で、「アメリカから見る日本」に少し誤解があるということを感じました。 例えば、日本人は今でも日常的に着物を着ているとか。 
私は同じ歴史上の事実を見たとき、日本で学ぶ事実とアメリカで学ぶ事実に違いはあるのかということに非常に興味を持ち、あえて日本文学や日本史のクラスを受講しました。
日本とアメリカで人生の半分ずつを過ごした私だから伝えられることを、プレゼンや論文などで精一杯表現しました。
合計11年間、アメリカで過ごし、22歳の時に卒業。 ちょうど人生の半分だな、と思ったとき、そろそろ自分のルーツである日本へ戻ろうと決意しました。

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【帰国子女の社会人】

「英語が話せれば何にでもなれる!」と少々勘違いしていた私は、自信満々で就職活動を開始。 しかし、現実はそんなに甘いものではありませんでした。 
「帰国子女」=「協調性がない」「自己主張が強い」など、悪いイメージばかりでした。

地道な就職活動を経て、何度も挫折しそうになりながら、やっと小さな輸入代理店に就職することができました。 そこではメール、契約書などの翻訳からプレゼンでの通訳まで、いろいろやらせてもらいました。 日本語がおかしいと、何度も注意されながら、一般常識や社会人としてのマナーを教わりました。 そこでの経験を経て、今はレコード会社で海外関連の部署に所属しています。
年に3、4回の海外出張では、海外の取引先との商談、日々の業務では、契約書の締結やイベントのコーディネーション等、全て英語で行っています。

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日本の商品を海外へ送り出すこの仕事に、とてもやりがいを感じ、英語という国際言語を使って、世界各国の人たちと交流できることを誇りに思っています。 出張先で知り合い、交流を深めた人たちと友達になり、昨年冬、彼女らを訪ねて一人でタイへ行きました。 学生の頃とは違い、社会人になってから友達を作るのは少し難しいものです。 そんな中、国境を越えて友達を作ることができる。 これは本当に素晴らしいことだと思っています。
英語を話せるということで、確かにつらい経験をしたこともありますが、それもまた、今の自分を形成した良い経験だと思っています。 その後、日本では「英語」という強みを、アメリカでは「日本人である」という誇りを持って生活できたことを本当によかったと思っています。 
その生活が、私の視野を自然と広げ、様々な分野で活躍する人たちに興味を持ち、今は幅広い交友関係を築くことができています。 内気な少女だった私が、「1年365日では足りない!」と悩むほど、周りにはたくさんの素敵な仲間がいます。
そして現在、自分の最大の強みである「英語」と「海外経験」を生かすことのできる仕事に就けたことを幸せに思っています。
これからも日本とアメリカだけでなく、世界のさまざまな国の人たちと出会い、その出会いによって自分自身を成長させていきたいと思っています。

自分の可能性を最大限に広げてくれる一つのツールとして

岡田光晴 (Mitsuharu Okada)さん (ハワイ大学大学院社会福祉プログラム博士課程)

東京都生まれ。 高校卒業後、ロサンゼルスのコミュニティカレッジへ。 ニュージャージー州のモントクレア州立大学、コマーシャルレクリエーション学部を卒業し、フロリダのテニスアカデミー、ロサンゼルスの広告代理店、さらに翻訳通訳会社にて勤務。
再度、ロサンゼルスの南カリフォルニア大学大学院国際公共政策学部へ入学。
卒業後、ハワイ州、国立イーストウェストセンター・アジアパシフィックリーダーシップのプログラムに参加。 
ロサンゼルス市・郡の高齢者虐待防止プログラムの教育イベント、各種分野合同のケース対策チームの教育プログラムコーディネータを勤める。 
現在、ハワイ大学大学院社会福祉プログラム博士課程に所属。 
 

~英語との出会い~

僕の父親は、仕事で海外に行くことが多く、その度に、行った街の写真を見せてもらったり、訪れた国の話をよく聞いていました。 そして家にいる時は、映画をよく観ていたので、英語=映画のイメージがありました。 また、9つ上の姉も英語に興味があり、ビートルズなどを聴いていたので、自分も一緒に聞いていた思い出があります。 
幼稚園のころに、姉がマグカップに、自分の名前をローマ字で書いてくれたことがあり、それからアルファベットに親しみがわいてきました。 また、英語の歌のテープを買ってもらい、繰り返し聞いて真似をしてながら歌っていました。 あまり日本語と英語の区別がなかったのでしょう。
はじめてハワイに行った時も、理解こそしていませんでしたが、英語を違和感のある言葉とは感じませんでした。 小さいころから英語が周りに普通にあったため、英語を「勉強」していくことになってもまったく拒絶感がなかったのだと思います。

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~英語の勉強のはじまり~

僕が一番初めに英語を勉強し始めたのは小学校3年生のときです。 もともと興味があったので、自分からやりたいと親にせがみました。 はじめは絵を見ながら単語を覚えていったんですね。 日常生活になじみのある単語をたくさん覚えていきました。 家に帰ると、習った単語のアイテムを見ては英語で言う、という繰り返しをしていました。 そして、わからないものを英語ではなんというんだろうかと考え、毎日が興味の連続でした。 映画を観るときは、簡単なせりふをがんばって聞き取っては、繰り返して言ってみたりしました。

中学に入り、授業としての英語が始まってからも、あまり「学問」として英語を認識していませんでした。 そのため、他の教科は好き嫌いが激しく、成績もいまいちでしたが、英語だけはあまり苦労しませんでした。 いい先生にも恵まれたのだと思います。 音楽好きの先生だったので、授業中にギターを持ってきて一緒に歌を歌うのがとても楽しかったのです。
この先生には、ビートルズ、カーペンターズ、ベット・ミドラーなどの名曲を教えてもらいました。

父親の仕事の影響もあったのでしょう。 「英語が話せれば、世界は広がるのではないか」と必然的に思い込んでいたのかもしれません。 このころは、世界地図を見て世界にはどういう国があって、どういう人たちが住んでいるのか、うきうきしながら調べていたのを覚えています。

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~ロサンゼルスへの憧れ~

いろいろな国へ行っていた父親ですが、その中でもロサンゼルスという場所を気に入っていたようです。 一度、大きなミッキーマウスのぬいぐるみと、ロサンゼルスの写真が載っていたポストカードを買ってきてくれたのを、今でも鮮明に覚えています。 そして、父親に「こんなにたくさんの人種が隣り合わせに住んでいるところはめずらしい。 世界をコンパクトにまとめたようなところだ。 いつも天気もいいし、人々は陽気だし。 一度はロサンゼルスを訪ねなさい。」と言われました。 それ以来、ロサンゼルスへの憧れが沸いてきたのです。

高校は、大学の付属校だったので、エレベータ式に進学することもできました。 当時は「いい大学にいかなければ」という気持ちもあったので、付属高校に進んでいたのですが、僕の進むべき方向を導いてくれた先生がいました。 僕自身、全てにおいて疑問を持つような時期でした。 その時期に、その担任の先生から、毎週エッセーを書くように課題として与えられました。 疑問に思うこと、なぜ疑問に思うのか、どうそれを変えたいのか、どういう影響があるのかと、思ったことを自由に、様々なトピックについて考えさせられました。

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普通、日本の教育では、答えがあるものを解かされ、その答えに正しく導けるように訓練させられることが多いですよね。 しかし、この先生はあえて「答えのないもの」、「矛盾のあること」に対して疑問を持たせてくれて、自分の考えをまとめる練習をさせてくれたのです。 クラスメートの中には、このやり方に不快感があり、授業を嫌がる人も多かったのですが、僕はなんだか自分を出せる居場所を見つけた気がしたんです。 それまでは「普通でいるために」一生懸命だったので、自分は「ひねくれているのだろうか」、「おかしいのだろうか」と悩むこともあったのですが。 
このエッセーは匿名でやるものだったのですが、ある日、先生に言われたんです。 「お前のエッセーは特徴があるから、すぐどれだか分かる」って。 その時、個性を持つことは悪くないし、普通でいなくてもいいのではないかって思わせてくれました。 特にこの学校はバンカラ気質で保守的なところもあるので、先生にアメリカの大学進学を考えてみたらどうだと言われたのです。

それまでも留学したいという気持ちは強かったのですが、「保守的」な自分がそれを拒んでいたのでしょう。 「いい高校を出て、大学を出て、そうすればいい会社に入れて、幸せが待っている」という方程式を勝手に思い込んでいたのでしょうね。 人によって、いろいろなスタイルがあるということを押し殺していました。 この先生の言葉が、すぅーっと「自分」になることを後押ししてくれたのだと思っています。

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~いざ、アメリカへ~

単身で、ロサンゼルスに渡った当初から、不安や怖さというもが全くなく、毎日がわくわくして過ごしていました。 単純に若かったんでしょうか。 白人、黒人、ヒスパニック、アジア人など、多くの人種が街中にあふれている。 それを見ているだけで、なんだか自分の存在感を感じれる喜びがありました。 他人からの自分は、「アジア人」、「日本人」と写る。 なんだか、そういう感覚が今までになくて、本当に新鮮でした。 そして、皆、自分という個性を大切にしていて、自分の可能性を最大限に試していける、そんな雰囲気に、渡米して間もなく、「あっ!ここだ!」と感じたのです。

けれども、今まで自分を表現するとか、自分の言いたいことを発言するということに、あまり慣れていなかったのでしょう。 表現したくても、「中身」がなくて戸惑いました。 
自分は日本人の一代表であるため、日本のことをいろいろ聞かれますが、知らない、わからない、はたまた、自分は何なんだろうかと悩んだ時期もこの頃でした。 
日本語でも、英語でも、そうなのですが、言葉というのは伝える手段です。 ただ、「中身」は自分の知識や経験から作り出すしかないのです。 それまではマニュアル的な答え、決まったいい回しなどをただただ詰め込んできました。 しかし、「自分はどうなんだ」と問われた時に、周りを見回して、「正しい答え」を探している自分に気付いたのです。 突然、失敗する怖さ、先行きの見えない将来に不安を覚えはじめました。

とにかく、いろいろなことを片っ端からやるしかありませんでした。「自分作り」のスタートですね。 日本の学校はひとつの部活に入ると、ほかの部活に入れないことが多いのですが、アメリカの学校というのは、幅広く経験を増やすように、学期ごとに違うスポーツや活動が提供されていて、複数の活動ができるようになっています。 オバマ大統領も、高校時代はバスケットボールとポエムのクラブに所属していたそうです。

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僕は元来、シャイな性格ではないので、友達もたくさん出来ました。 下手な英語で話しては、間違いを指摘されて、笑い、直してまた話す、の繰り返しでした。 日本語が母国語なのだから、来たばかりの頃は英語はできなくても当然だと思っていました。 間違えてこそ、何かを学べると思っていましたし、通じなくてもへこたれることはなかったです。 勉強は相変わらず嫌いで、本を読むのも苦手だったので、クラスではすごく苦労しました。 しかし、友達も増え、映画もたくさん観ていたので、英会話は上達していきました。 必死で友達の表現を覚えて、映画を繰り返し見ては、そのせりふを使ってみたりしていました。 毎日の生活が楽しいと思えていたので、伸びるのも早かったのだと思います。

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~アクティブにいること~

自分自身をあまり理解できてなかったので、いろいろな経験を通して「自分」を分かろうと、そういう環境にわざと追い込みました。 テニスを習い始め、イタリア語を勉強し、多くのイベントに参加するよう心がけました。 こういうことをしていると友達も作りやすいんです。 そして、日本史、政治、宗教、文化などについて聞かれることが多かったので、答えれるように、本を読んで勉強しました。 また、暇とお金さえあれば、旅行に出かけました。 アメリカは大陸ですので、車さえあれば運転していろいろな場所へ行くことができます。 ラスベガス、サンフランシスコ、メキシコ、カナダなどに行きました。 96年にはアトランタオリンピックにも、行きはバスで4日、帰りは電車で4日かけて行ってきました。 様々なことに取り組み、挑戦して、自分に合うものと合わないもの、自分の強いところと弱いところを見極めていたように思います。

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~東海岸へ~

ロサンゼルスでは始め、コミュニティカレッジに通っていたのですが、3年目に4年制の大学に編入する際、ロサンゼルス以外の街へ行こうと思いました。 ロサンゼルスはとても気に入った街だったのですが、他の街を見ることで、もっと好きになるのではないか、また、もしかしたら、もっと自分に合う場所があるのではないかと考え、東海岸の大学進学を検討しました。

結局、ニュージャージー州のモントクレア州立大学に編入することにしたのです。 同時にテニスチームに所属することにしました。 さすがに場所が変われば全く雰囲気が違いましす。 ロサンゼルスでは、いろいろな人種がいるので心地よく、実はあまり「アメリカ」にいる気がしていなかったのです。 しかし、東海岸にくると、レンガ建ての家が多く、また、ニュージャージーは白人が多い地域なので、3年目にして初めて「アメリカ」を感じました。 それと、アクセントが異なるので、そこも始めは少し戸惑いましたが。

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授業にもだいぶ慣れてきた頃、試練がやってきました。 3年時のクラスですが、なんと90分の授業を英語ですべて自分でしなければならなかったのです。 僕が通っていた当時、この大学には外国人生徒がかなり少なかったのです。 しかも、リクリエーション学部は1学年で30人ほど。 外国人は学部内で僕を入れても2人しかいませんでした。 さすがにあせり、教授の部屋に何度も通いました。そんなあせっている僕に対して教授はこう言ったのです。
「人間なんだし、特に君は外国人なんだから、失敗はあたりまえじゃないか。 自分の持っているもの以上を期待してはいけないし、それ以下に自分からしてしまってもいけない。 失敗を繰り返すことが、学ぶということなのだし、君が失敗してくれたら、他の生徒だってそれが学びになる。 そして自分の財産にもなる。 大切なのは目の前にあることを一生懸命やって、次へつなげることだ。」と。
自分がアメリカに来た当初の気持ちを思い出させてくれました。 ちなみに、そのクラスはなんとかパスしました…

この教授の言葉は、それからも何度も思い出すことになりました。 次の夏にディズニーワールドで働く機会があったのですが、さすがに、プロフェッショナルな場所であるため、英語がまだ不自由な自分には不相応な場所じゃないかと、かなりのプレッシャーがありました。 しかし、始めないことには何も生まれないのです。 隣にいたキャストメンバーがどのような会話をしているのか、仕事を始めたばかりの頃は毎日聞き耳を立てていました。 結局、この仕事でフロリダには3ヶ月いたのですが、この時に本当に英語が伸びたんだなと実感したのです。

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大学卒業後は、再度フロリダに行き、テニスアカデミーでマネージメントのお手伝いをしながら、テニスコーチをしていました。 世界中から集まる将来有望なジュニアプレーヤーたちの世話をすることがあったのですが、200人位を前に指示を出したり、平気でできたんですね。 それまでの失敗がなければ、あのように堂々と英語で仕事をこなす自分はいなかったかもしれません。

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~日本への帰国~

1年ほど、大学院進学準備のために、日本へ帰国しました。 アメリカに10年ほど住んでからの帰国でしたので、毎日が「外国人になったような」新鮮さがありました。 日本にいる間は、英語講師をしていたので、英語を学びたい生徒さんたちと沢山話をする機会がありました。 生徒さんたちによく伝えていたのは、「自分を知ること」、「自分に自信を持つこと」、「反省はするけど、後悔はしないこと」、「失敗を恐れないこと」が大切だということです。 英語習得に直接関係するアドバイスではないかとも思ったのですが、どうしても伝えたかったことなのです。

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英語というのは所詮は言語です。 先生方には怒られてしまうかもしれませんが、文法やルールなんかも人が作り出したものです。 テストとなれば「間違い」となるけれども、本来の目的は意思疎通を図るためのものですから、全く堅苦しくなる必要はないんです。 身振り手振りのジェスチャーとか、単語だけを絵に描いて見せたりとか、会話とは本来、いろいろな方法があると思うのです。 伝えるために何が大切かは、そこに「心がこもっている」かどうかなのです。 心をこめるためには、自分が伝えたいことを理解していなければならないし、それを一生懸命伝える態度が大切になると思うのです。

もちろん、単語を知っている、文法を知っているということは、正確性を保つためには必要なことなのですが、同時に自分の質を向上するために努力をすると、もっといろいろなことへと派生して広がっていくと思うのです。 どこかのコマーシャルではないのですが、「可能性のないものはない」のですから、[幸せの方程式]というものは自分で作って自分で使っていくものだと思っています。

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~可能性への切符~

既に日本を離れて15年が経ちます。 しかし、「自分探し」はまだ続いています。
2001年に、アメリカ・ニューヨークで起きた「911」事件をきっかけに、何が世の中の人々の不協和音を引き起こしているのかを考えるようになりました。 事件現場が大学のそばでしたので、被害にあったり、事件を目撃した友人が数多くいて、大きな影響を与えられました。 自分は、世界の一個人として何かできることはないだろうかと考え、ロサンゼルスの南カリフォルニア大学大学院で国際公共政策学を学ぶことにしました。 答えのない物が、様々な形で複雑にかかわりあっていることが、世の中には多くあります。 時にはどちらかが正しい、間違っていると判断ができません。ただ結果として惨事となり、ネガティブな要因だけを残す場合もあります。 難しいことではありますが、それでも語り合うこと、会話を続けることのパワーは存在すると思うのです。 それが見解の違いを理解することであったり、お互いの立場を尊敬することにつながることもあると思っています。それが教育という形になりえると思うのです。

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先日、パキスタン人の友人の結婚式に招待されて、パキスタンに行ってきました。 メディアでは連日、醜い戦いの様相が報道されています。 実際に危険な場所はたくさんあるようですが、訪れた街は歴史のあるとてもきれいな場所でした。 そして、そこの人々は本当に温厚で、人なつっこい人たちばかりでした。 普通の旅行であれば、このエリアの状況を考慮すれば、あまり行くべき国ではないと思います。 ただ結婚式に招待してもらって、自分も行きたいと思えたのは、心から信頼できる友人だったからこそだと思っています。 それは、英語という言語能力のみの域を超えて、伝わり合う、分かり合う友情があるからこそなのです。 
実際に英語ができると、世界の多くの場所で通じる言語であるため、旅行も楽になると思います。 勿論、通訳を雇えば問題ないですし、便利なのですが、子供のころにやった「伝言ゲーム」と一緒で、言葉が伝わるときには、何かメッセージが抜けてしまうことがあると思うのです。 そういう面からも言語を習得しておくことは、あらゆる可能性への切符であると思っています。 そして、その広がる可能性、知識の吸収だけでなく、自分自身の新たな発見にもつながるはずです。

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現在、ハワイ大学大学院社会福祉プログラムの博士課程にいるのですが、「声」の大切さを伝えていけたらと考えています。 研究では、明治維新以前より日本政府によって、長年、その「声」を奪われてきたとされるアイヌの方々のステータス、アイデンティティ、社会福祉制度の向上の手伝いをしたいと研究を進めています。 そして、アイヌ文化の維持と発展、そして日本という国が他民族国家であり、複数の文化が存在しているというすばらしさを広めていきたいのです。 ここにくるまでには、かなりの時間がかかって、遠回りした感じもあるのですが、それでも今までの一つ一つの経験が生かされてここにいるのだと強く思っています。 
子供のころの「英語への興味」から始まり、「英語を学び」、「海外を知り」、「日本を知り」、「自分を知り」、そして、「自分の可能性を今後どう広げていくか」について考えられること自体、本当に幸せなことだと思っています。

皆さんも、自分の可能性を最大限に広げてくれる一つのツールとして、是非、「英語」、またはその他の言語を習得し、納得いく人生を送ってください。 応援しています。

英語を使うことに喜びを見出せることが重要だと思います

渡嘉敷 祐介 (Yusuke Tokashiki) さん (玩具販売代理店業務)

1963年、埼玉県生まれ
青山学院大学経営学部、Mercy College, NY
NYでのヘッドハンティング事業の後、現在ロサンゼルスで玩具販売代理店業務

私は、86年に渡米、在米生活は丸23年になります。 現在はロサンゼルスの近郊に在住、カプセルトーイ(日本で言うガチャガチャ)のディステリビューター会社を経営しています。 それ以前は、日本の玩具会社、トミーの現地法人で、営業とライセンシングの責任者をしていました。 
西海岸に移住して6年ほどたちます。 その前にはニューヨークで16年ほど生活しておりました。 渡米の大きな理由は、米国の個人主義と、国を形成するダイナミズムに高校時代より憧れを持ち、将来、自身のビジネスを構築して、経営していきたい意向が日々強くなったからでした。

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学生時代(中学、高校)の英語学習は、全くと言ってよいほど、興味は沸きませんでした。 文法や読解など、非常に学問的な要素が強く、英語をコミュニケーションツールとして考え、それを利用することで自身の世界が広がる、という考えが出来にくかったのが大きな理由だったのではないかと思います。 一応、進学校に通ってましたが、成績も常に赤点ぎりぎりだったと記憶しています。 特に英語の勉強はしなかったです。

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しかし、自分の夢を実現するために、必要な英語の習得には興味があり、知識の無いなりに、渡米にあたっての、また、将来的な英語の攻略を、自分なりに考え始めました。 その当時、大学浪人して入学し、親元を離れ自活を始めた時期だったので、資金も無く、英語学校に毎日通うという選択肢は可能性として必然的に低く、他の方策を考えなければなりませんでした。
そこで思いついたのが、現在も日本国内に何箇所か存在する米軍基地での勤務=英語習得というものでした。 幸運なことに、神奈川県厚木の米海軍航空施設EMクラブに、カクテルウェイターとして就業し、とりあえず、毎日英語を否が応でも話さなければならない環境は手に入れました。 客は全て軍属の兵隊(もちろんアメリカ人です)でした。・・・・・
夕方5時くらいから夜中まで、週末は、午前2時近くまでの勤務だったと思います。 その当時は、毎日覚えたフレーズや単語の使用を試み、失敗すれば翌日には訂正するという、会話を上達させる上では理想的な環境だったと思います。 誰もが米軍基地での就業は可能ではありませんが、私の場合、ここでの2年間は、英語環境に慣れたという意味では、非常に幸運であったと思います。 また多くの友人にも恵まれました。 私は、そのクラブの歴史上、初めての日本人カクテルウェイターであったとのことを後日聞かされました。 それまでは、全て米国人(英語がネイティブ)か、フィリピン人の方々がほとんであったそうです。 その頃は、まともな会話もおぼつかない様な状態でしたから、よくクラブマネージャーが雇い入れたと思っています。 しかし、会話も上達するにつれ、兵隊たちの友人も急激に増え、非番の日にはよく、横浜に何人かを連れて、遊びに行ったものです。 それまでは、非常にバカにした態度を取られていましたが。そのうちの一人は、私が彼に頼まれ声を掛けた日本女性と結婚し、今も幸せにやっています。 厚木のカクテルウェイター時代は、その後の渡米の情熱と英語習得の興味を更に高めてくれました。

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渡米後の1年半は、お決まりのレストランビジネス(皿洗い、キッチンワーカー、アシスタントマネージャー等)で生活していましたが、87年の夏に転機が訪れ、コロラド州のデンバーよりニューヨークに移住が決まりました。
東京の従兄弟の会社の米国オフィス設立にあたり、声が掛かり、二つ返事で引き受けました。 一応、翻訳通訳、イベント、人材斡旋会社ということでしたが、当時は、日本はまさにバブル経済の真っただ中、今思い出すと、恥ずかしいくらい経営はいい加減だったと思います。 クライアントはほぼ100%が日系法人でありましたし、サービスも経営もいい加減でも通ってしまう不思議な時代でした。
その頃から人材業務に従事し始めたのですが、バブルも崩壊し、クライアントの求めるサービスの質も徐々に高まり、今までのやり方では全て淘汰されるという畏怖の中、アメリカ人とのコミュニケーション能力の向上は不可欠になってきました。大学に行きなおし、英語の基礎をやりなおさなければと真剣に考えました。 結局、2年ほどニューヨークのカレッジに通いました。 目的が明確であったので、効率も良かったと思います。

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97年くらいからでしょうか、人材紹介業務を人材のサーチ、ヘッドハンティングに切り替えることにしました。当時、ニューヨークに存在した日系の人材紹介会社は、どこも、職を探す人間の履歴をファイルし、クライアントからの要請があった場合に、その中より選別・紹介する会社ばかりでした。 私が同じことをやっていても、資金力の無さで結局ラチがあかない。 そこで、彼らに出来ないローカルのアメリカ人の人材サーチ・ヘッドハンティングしかないとの結論に行き着きました。 それも、ニューヨーク地区に多く存在する、大手日系メーカーに、セールス、マーケティングの人材を充当するのを専門にサービスし始めました。

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営業し、徐々にオーダーも増え始めましたが、手元に適当な人材の情報が無いわけですから、何とか入手しなければなりません。 クライアントでも、候補者とでも、とにかく電話で知らない人と英語で会話をするのです。 恥ずかしい、嫌だ、などとは言ってられません。 クライアントは日系企業とはいえ、コンタクトをする窓口の人間はアメリカ人が多かったのです。 もちろん、トップの社長は、日本人であることが多かったですが。 私はその点を踏まえ、信用を得るという意味で、日本人である長所を大いに利用しました。 候補者へのコンタクトは、まずオーダーの入ったポジションの業界をリサーチし、競合社のリストアップをし、その後、タイトル(肩書き)を頼りに名前を入手し、本人にコンタクトする。 実際に本人に会うまでは、全て電話でのやり取りです。 相手も忙しい中、電話で話す短い間に、なんとか情報を引き出し、相手に興味を持ってもらわないといけません。 電話をかける前には、大まかな会話の台本も用意して、一回一回が本番勝負というような意気込みでした。

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その作業は徐々に楽しくなっていきました。 ポジションにもよりますが、本人からレジュメ(履歴書)を提示してもらい、クライアントとの面接を設定するまでに、本人とは100回以上は最低話をするのではないでしょうか? 信用を勝ち取らなければ、決してそこまで進みません。 その当時、パートナーたちの手法を真似したり、会話を覚えたり、出来ることは何でもしました。 このヘッドハンター時代は、一日平均6時間は、電話で英語を話していたと思います。 今考えると、良くやっていたと、自分でもあきれると共に、感心もします。 補足ですが、その当時、スクリーンプレイという本(映画の台本の台詞が全て英語で記述してあり、日本語の訳とフレーズの説明等がある)をむさぼり読み、会話を記憶していました。 マイケルダグラス主演のウォールストリートなどは、かなりの部分を記憶するくらい繰り返し読みました。 これは非常にためになりました。

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私の英語学習経験は、多くの方々にとってためになるかは疑問ですし、皆それぞれ、適当な手法が違うと思います。 ただし、学校での学習は決して無駄ではありませんし、非常に重要であると、今改めて感じています。 私の場合、基礎が無かったので、非常に乱暴な手法になってしまいましたが。 現在も、勉強不足を感じることは頻繁にあります。 何事もそうでしょうが、英語を使うことに喜びを見出せることが重要だと思います。 そうでなければ、結局長続きしませんよね。
英語を利用して何をしたいのか、アカデミックな方向に進みたいのか、ビジネスをしたいのか、人それぞれだと思います。
私自身は英語でコミュニケーションをとる事が個人的に非常に楽しいですし、また、アメリカ人の考え方、文化の違いを知ることで、自分が日本人であるバランスを取っているところは大いにあります。

考え方が柔軟で多様になり、寛容になり、そして心が広くなっていきました

佐藤規久 (Norihisa Sato)さん (歯科医師 佐藤ファミリーデンタル)

1970年生まれ、東京出身。 
カリフォルニア大学アーバイン校、NY州コロンビア大学歯学部大学院を卒業。
カリフォルニア州アーバインにて佐藤ファミリーデンタルを開院。

英語を勉強しようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

12歳の時、兄が聞いていたビリー・ジョエルの曲を聞いて、初めて英語に興味を持ちました。 何だか、かっこいい音楽という印象がありました。 しかし、英語の歌詞が全く分かりませんでした。 中学に入って、初めて英語の歌詞を見ながら口ずさめるようになり、とても嬉しかった記憶があります。 その時の喜びから、英語が好きになりました。
高校1年のとき、クラスメートに帰国子女が1人いました。 その人の発音する英語は、先生よりも上手で、まさに本物の英語でした。 これにはとてもショックを受けました。 学校で習っている英語と海外で学んできた人の英語は別物なんだと思いました。 その時から、実際に使える英語を勉強したいと思い始め、漠然と将来、英語を使って仕事をしたいと考え始めました。

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どうすれば英語が上達し、楽しく学ぶことができるのでしょうか?

英語を学んでいく上で、音楽、映画、ドラマなど、何か英語に関係するものに興味をもち、楽しみながら長く学び続けられると次第に上手になります。 分からない言葉が出てきたら、そのまま放置しないで、辞書で調べてみようと積極的に思えることが大切で、徐々に語彙も増えてきます。
英文を読んだり、聞いたりするだけではなく、留学生や帰国子女など、英語を話せる人と友達になり、英語を話す機会を作れると一層興味が沸いてきます。

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なぜ、英語を学ぶことが必要だと思いますか?

よく言われているように、英語は国際的な共通言語です。 アメリカやイギリスなど、英語圏の人だけではなく、アジアの人でも、ヨーロッパの人でも、英語という共通言語を通じて話し合い、意見交換することができます。 特に、今はインターネット社会ですので、英語さえできれば、たとえ日本にいても世界中の人と知り合えるのではないでしょうか。 同じ趣味の外国人から、日本では考えられないような意見を直接聞く機会もあるでしょうし、例えば、イラストが上手であれば、海外の会社や個人と直接契約を結ぶこともできると思います。 まさに世界が広がります。

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英語を学んだら、どのような楽しみがあり、どのような広がりがあるのでしょうか?

英語ができると、英語が母国語の人だけでなく、英語を話す世界中の人と意思疎通ができます。 英会話が上手くなってくると、価値観の違い、文化の違いも感じられるようになります。 それによって幅の広い経験ができ、自分の幅も広げることができるのです。

18歳まで日本で暮らしていて、気がつかなかったこと、アメリカに来て、英会話が上達して初めて気付いたことがあります。 基本的に、単一民族国家である日本での日常生活では、日本人の価値観や意見は多様性に乏しく、個性的な人ほど窮屈に感じてしまうことが多いということです。 アメリカに来て間もない頃は、何事も、自分の乏しい日本での経験から判断していましたが、多人種国家であるアメリカ滞在が長くなるにつれ、徐々に自分の考え方が柔軟で多様になり、寛容になり、そして心が広くなっていきました。 世界が広がったのです。 性格にも影響したと思います。

また、英語が分かり始めると、アメリカが個人の才能、良いところを、かなり積極的に評価してくれる国だということも分かりました。 そのため、人種に関係なく、英語が下手でも、テニスが得意とか、ピアノができるなど、一芸があれば何とか楽しくやっていけます。 同じ趣味の人が見つかれば、すぐ友達になれます。 また、勉強やスポーツができる人は、とことんその分野を極められます。 その道のプロになりやすい環境が、日本より身近にあると思います。 自分さえ希望し、努力すれば、自分の限界まで上手くなれる機会が与えられる環境がより身近にあるのです。

障害者など、社会的弱者を積極的に認めているのも、アメリカのいいところではないでしょうか。 日本でバリアフリーという言葉が使われる何年も前に、アメリカでは、障害者への配慮が建物の基準とされていました。 最初に留学した学校に、日本人の車椅子の障害者がいましたが、校舎はバリアフリー、寮も障害者用の部屋があり、バスタブが入りやすいように工夫されていました。 きっと、その人は日本もこうあってほしいと望んだことでしょう。 当時は、障害を持っていながらの留学はすごいと、ただただ感心していましたが、今考えてみると、彼にとって、とてもいい経験になったと思います。 帰国後、他の障害者に、アメリカではバリアフリーがこれほど進んでいると伝えたのではないでしょうか。

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今後、どのように英語を学習していき、英語を使って、どういうことをしていきたいですか?

自分の意見を、ニュアンスも含め、英語でより上手く伝えられるようになるため、今後も積極的に英語を学んでいきたいです。 今は、毎日の診療時間の合間をぬって、夕方に「トーストマスター」という英語のスピーチクラブに参加し、大勢の人の前で説得力ある話し方ができる力を磨いています。 日本にもあります。 興味のある方はインターネットで検索してください。

以前は、アメリカの良いところを日本に紹介しようと思っていましたが、逆に最近は、自分がもっと英語を磨いて、日本の良いところをアメリカの人に理解してもらおうと思っています。 例えば、料理人であれば、和食の美味しさを広めるとか。 自分の場合は、アメリカ人を始め、日本人以外の患者さんに、隅々まできちんと手の届いた日本式「ホスピタリティー」を基本に、その場限りではない心のこもったデンタルケアを実践していくことでしょうか。

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現在、どのような職業をされているのでしょうか? 

今、アメリカで歯医者をしています。 アメリカで歯科医師免許を取得したあと、日本の免許も取得しました。 普段はアメリカで治療していますが、年に最低一度、日本に戻る際には、いつも何件か歯科医院を訪問見学し、日本の現状も勉強しています。 そのため、日本とアメリカの医療制度や社会保障制度の違い、良い点と悪い点が分かります。 それぞれの良いところを享受することができますし、患者さんに教えてあげることもできます。

例えば、アメリカに滞在されている日本人の患者さんを治療する場合、歯科矯正治療、審美治療、予防治療などは、日本では保険外治療になることが多く、全額自己負担のため、高額で受けづらいのですが、アメリカでは歯科保険が適用されるため、日本人の患者さんには特に喜ばれています。

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英語の勉強方法でアドバイスはありますか?


英会話は作文ではないので、ある程度の文法の間違いは気にせず、どんどん話していくのがいいでしょう。 心を開いて、英語で何でも話せる友達を見つけることです。 英語が母国語の人がいいのですが、最初は英語が母国語でない留学生でも構いません。 その方がお互いに、英語で上手く言えないことが分かっているので、落ち着いて聞いてくれるでしょう。 英語が母国語の先生と親しくするのもいいと思います。

「語学・文化の壁」を、ついに越えることができたと実感しました

M. E. さん (Political Science:政治学科 専攻)
高校を卒業後、アメリカ、カリフォルニア州オレンジ郡のELS語学学校へ留学。 その後、Community Collegeを卒業し、日本に帰国。 再渡米し、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校のPolitical Science(政治学科)専攻に編入。 2009年春に卒業して、日本に帰国。 学んだ知識や経験を役立てようと、現在奮闘中。

~ 英語への興味 ~

中学2年の夏に、アメリカ、カリフォルニアのサクラメント市に2週間の短期交換留学をしました。 それ以前は、海外に出たことも、ましてや一人で旅行をしたこともなく、初めは大丈夫かなと不安に思うこともありましたが、2週間はあっという間に過ぎました。 
滞在中はアメリカ人家族の一家にお世話になりました。 家族の方は、一生懸命いろいろと話しかけてくれましたが、私は全く理解できず、意思疎通が困難な上、また文化の違いに唖然とすることもありました。 どうしようかと思っていたとき、家族の娘さんがフルートを出してきて、吹いてみないかと誘ってくれました。 私は、中学校のブラスバンドでフルートを吹いていると話すと、興味津々でいろいろ話を聞かせてほしいと言われました。 共通の話題があって嬉しくなり、一生懸命自分の話をしようと思ったのですが、英語が全く話せなかった私は、自分が話したい内容の10%も言えず、英語を話せたらもっと詳しく説明ができるし、相手の話もたくさん聞けるのになあと、とても残念な気持ちになりました。
英語を話したいと思った理由は、自分の意思を相手にちゃんと伝えたいと思ったり、相手の話をもっとよく理解したいと思ったからです。

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~ 留学生活 ~

高校を卒業して、1ヵ月後に渡米しました。 カリフォルニア州オレンジ郡にあるELS語学学校に数ヶ月通ったのですが、この学校は、隣に大学があるので、アメリカ人の学生と一緒に生活できるところが魅力でした。 大学の講義を受けることはできませんでしたが、日本語を学ぶアメリカ人学生と友達になって、彼らのクラスに行って、日本語を教えるボランティア活動をしていました。 その結果、日本に興味を持つアメリカ人の友達がたくさんできて、彼らから英語を学んだり、アメリカの文化を教えてもらいました。 大変貴重な時間を過ごすことができたと思っています。
語学学校のあとは、近くのコミュニティカレッジに入学し、実際に英語で一般教養のクラスを取り始めました。 はじめは、1割も理解できていたかどうかわからない程度でしたが、3年が経って、必要な単位をとり終え、最終目標だった4年制大学へ編入することができました。 最後の2年間の大学生活は、あっという間でした。 授業では、頻繁にグループ発表があり、最初は苦手と思っていたのですが、何度も回数を重ねるうちに、仲のよい友達ができて、一緒に勉強することが楽しくなっていきました。 グループ内での発言も自信を持って言えるようになり、英語を話すことが楽しいと思うようになっていったのです。

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~ 留学から得たもの ~

先月、大学を卒業しました。 長い留学生活でしたが、卒業証書を手にしたとき、中学のときに目の当たりにした「語学・文化の壁」を、ついに越えることができたと実感しました。 語学習得には、長い時間がかかること、焦らずこつこつと続けていくことが大切だと思います。
言葉は自分や何かを表現するための道具ですが、これをどう生かしていくかが、私の今後の課題です。 海の日に、私の地元で湧水太鼓のフェスティバルがあります。 このフェスティバルに、アメリカから十数人の太鼓パフォーマーたちが参加する予定です。 私はこのフェスティバルで通訳のボランティアを頼まれました。 日本のよい伝統文化が国内だけの活動にとどまらず、海外にも伝わっていることを、とても嬉しく思っています。 海外から来客を迎えるとき、また国内から外へ文化を発信するようなときには、英語というツールを上手に使っていけたらいいなと思っています。

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~ 英語を学んでいる人へ ~

私が英語を勉強する上で苦労したことは、単語の数を増やすことです。 文章を読むときに、単語の意味がわからないと、前後の流れが読めません。 そこで、知らない単語がでてきたら、ノートに書き取って意味を調べていくことで、数を増やしていきました。 単純なことですが、こつこつと続けていくことが大事だと思います。
私は、英語を勉強し、自分の意見をはっきりと相手に伝えられるようになったことがとても嬉しいことでした。 言いたいことがあっても、言葉を知らないから言えないというのは、とても悔しいことです。 私の場合は、英語に自信を持ってから、大学の授業でも発言が増え、学校生活が楽しくなりました。
今、まさに英語を勉強されている方にいいたいのは、 言葉はあくまでも自分の考えを伝えるためのツールだということです。 そのため、勉強をしながら、「英語を話せるようになったら、何をしたいか、今後どのように英語を使っていけばよいか」を常に考えながら学ぶと良いと思います。