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日本だけでなく世界中にコミュニケーションできる友人がいる

カズ(Kazu)さん (輸入商品小売店 アシスタントゼネラルマネージャー:サンノゼ店)

神戸生まれ。 関西大学経済学部卒業。 カリフォルニア州アーバインバレーカレッジにてビジネスマネジメントを専攻。 現在、北カリフォルニアのサンノゼにあるサンテック(日本の輸入商品を販売する小売店)にて、店長兼アシスタントゼネラルマネージャーとして勤務。 カリフォルニアの4店舗のマネージメントを担当し、新規事業開拓に日々奮闘中。

みなさんこんにちは。
私は日本で生まれ育ち、今は北カリフォルニア(サンフランシスコから南に1時間ほど)のサンノゼに住んでいます。 留学でこっちに来るまでは、全く外国に行った経験もありませんでした。 
中学校では英語は好きでしたが、高校での英語は受験勉強ばっかりで、あまりいい思い出はありません。

はじめて生きた英語に出会ったのは、私が日本の大学で4年生のときに、アメリカに3ヶ月間、語学留学をしたときです。
そもそもアメリカに行きたいと思ったのは、当時、同じアパートの上の階に住んでいた英語の先生の影響を受けたこと、また、ファッション雑誌のカリフォルニア特集に刺激を受けたことが非常に大きな理由です。
この先生はアメリカに20年ほど在住していて、さまざまな会社で仕事をし、自ら起業したバイタリティーのあふれる人で、非常にエキサイティングな体験を私にたくさん話してくれました。 先生の英語の教え方は受験勉強とは全く異なり、毎回塾に行くのが楽しみだったのを覚えています。 教えられたのはまず発音でした。 しゃべる、聞く、書くという順でないと英語は絶対に身につかないという考え方です。

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私にとって、カリフォルニアの自由なライフスタイルが心地よいものではないかと思い、とりあえず短期でよいので、その空気に触れてきたいと、カリフォルニアの内陸にあるリバーサイドという町に、1ヶ月間英語を学ぶために留学しました。 そのあと2ヶ月間はアメリカの西海岸、中西部、南部の都市を次々と一人で旅行し、たくさんの街や観光名所をめぐり、人とのふれあいを楽しみました。この3ヶ月の滞在を終え、アメリカで仕事をしてみたいという思いが強くなり、約1年後に正規留学で再渡米しました。

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私は日本で大学を卒業していたので、アメリカ内で仕事ができる権利(OPT:オプショナル プラクティカル トレーニング)を得るために、2年間、カレッジ(2年制の大学)に通い、ビジネス マネージメント(経営学)を学びました。 カレッジでの勉強は基本的にアメリカ人と一緒なので、全く油断のできない大切な時間でした。
コミュニケーションが多くて、発言の機会も多いのが、日本の大学との違いです。 授業に集中できないので、私は好きではなかったのですが、日本の大学の授業よりもはるかに身についたと思います。

また勉強だけをしていても、アメリカの文化に触れることはできないと思い、学校のベールボールクラブに1年間参加し、シーズンを通して地元の学生との野球生活を楽しみました。
カリフォルニアには日本人の学生は非常に多いですが、カレッジ、ユニバーシティ(4年制大学)で部活をしている人はごく稀です。 毎日、数時間、アメリカ人のチームメイトと過ごすことは、私のアメリカ生活を本当に楽しくしてくれました。

たわいもない話から日本とアメリカの戦争の話など、非常に深い話題もあり、アメリカ人が戦争に対してどう考えているのかも知ることができました。
一方で、特にはじめの数ヶ月は、チームメイトとのコミュニケーションに苦労しました。

というのも、やはり、彼らの話言葉はスラング(俗語)が多いため、何を意味しているのかが分からなかったのです。 授業中、先生が話す言葉と、一般的な話言葉では、かなり違いますから、ぽか~んとしていることもよくありました。

このように、2年間の学生生活を英語を通じて学べたことは、非常に意義深いものだったと思います。 日本だけでなく世界中にコミュニケーションできる友人がいる(アメリカは移民の国で、多くの国から留学生が来ています)ということは、学生を終えたあとも自分の貴重な財産となっていきます。 ビジネスのチャンスにもなり得ますし、プライベートでずっと付き合っていく友人、恋人にもなり得ます。

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2年間の学生生活を終え、OPTの権利を取得し、念願のアメリカでの仕事をはじめました。
私の現在の仕事は、日本の輸入商品を販売する小売店で、店長兼アシスタントゼネラルマネージャーとして、世界のIT産業の中心都市であるサンノゼで働いています。 店舗の管理、在庫の管理はもちろん、カリフォルニアに点在する4店舗のマネージメントを任せられ、新しいビジネス、マーケットの開拓が主な仕事です。

仕事において使用する言葉は日本語と英語が半々です。 お客さんとのコミュニケーションは英語と日本語が半々、ベンダー(取引先)とのコミュニケーションは、ほぼ英語です。 私は日本語が母国語なので、英語がわからず、辛い思いをすることがたまにありますが、日々勉強という姿勢で毎日楽しく仕事をしています。 今後、日本で働くのか、アメリカに残るのか、または全く別の国に行くのか分かりませんが、英語を理解することができれば、世界中の多くの国で生活ができ、仕事もできます。

今後、皆さんの中には、アメリカに留学して、そのまま働きたいと思っておられる方もおられるでしょうし、また、学生をせずに、いきなり働きに来られる方もいらっしゃると思いますが、アメリカで働きたい場合は、いつもビザの問題が付きまといます。 滞在したくても、ビザの関係で断念せざる終えない場合も多々あります。 私は、運良く学生ビザ、研修ビザを経て、ワーキングビザ(労働ビザ)を取得することができました。 ビザの取得に関しては、もちろん運もありますが、計画性を持って、また、自分がやりたいことを明確にしていれば、結果はおのずとついてくるのではないかと思います。

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私は、まだカリフォルニアにきて4年ほどですが、今まで築いてきた人とのつながり、また、これからできるであろうつながりを人生の宝物ととらえ、自分にとって、“英語をつかうこと”が最大の武器になるだろうと確信しています。
あと数十年も経たないうちに、日本に住んでいる人も含めて、更に多くの人々が英語と日本語の両方を日常的に話す日がくると思っています。  そのとき、「英語」は話せるのが当たり前であり、「英語を話すこと」は皆にとって、「目標」ではなくなります。 さらにもう一段階上のステージ、「英語をツールとして何をするか」が問われる世の中がすぐに来るはずです。
そのためにも「英語を習得すること」は皆さんの人生に非常に大きな影響をもたらすのではないかと思います。

英語を手段だと考えないと楽しみは広がらない

安達 晋 (Susumu Adachi)さん (留学代理店グローバルパートナーズ)

東京都保谷市(現西東京市)生まれ。24歳でアメリカ・サンディエゴに留学。語学学校からサンディエゴ・メサカレッジを経て、サンディエゴ州立大学の国際ビジネス学部に編入。在学中、ロサンゼルス・ドジャースでインターンを経験。現在はアメリカ生活10年の経験を生かして、日本の留学代理店グローバルパートナーズに勤務。

中学、高校と学校の成績は下から数えるぐらいひどかったのですが、英語だけはそこそこでした。 といっても本当に人並みで、中学のころはその英語すら平均的な成績。 だから他の教科に比べては相対的に満足していたという程度ですね。

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唯一、英語は嫌いな教科ではありませんでした。 漠然とできるようになりたいと思っていたのは、小さいころからアメリカ大リーグが好きなことが理由だったと思います。 中学生の時から小遣いが貯まる度に、大リーグ関連の洋書を買っていました。 もちろん読めやしないので、家でにらめっこするだけ。 それでもいつもワクワクして、そこに書いてある記事が読解できるなら、どんなにいいだろうといつも思っていました。 当時の大リーグは今と違って日本人選手もいなかったですし、衛星放送もインターネットもなかったので、情報なんてほとんど入ってきませんでした。 だから、現地の出版物を取り寄せる以外に詳しい情報を得られなかったんです。 今でこそ、日本にいながら大リーグの情報を得るのに苦労しませんが、それでも本場の情報量と比べると未だ天文学的な差があります。その現地の「生の情報」にアクセスできるようになりたいっていうのが、英語を勉強する大きなモチベーションになっていたのでしょう。

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今でも大リーグに関する英文の本はよく読みます。 アメリカの場合、さすがに本場だけあって、いわゆる「野球ライティング」の分野が確立されています。 そのため、とても面白い! 単なる薄っぺらな野球情報じゃなくて、文学の域に達しているような深い本がいくらでもあります。そういった本にはまってしまうと、大リーグを単なるスポーツではなく、文化的、社会学的な見地からも楽しめるような幅ができるわけです。 その域に達するためには、それなりの「英語力」がどうしても必要になってしまいます。 自分の場合は、英語を学ぶことは趣味の為であったので、かなりモチベーションを高く維持してこれましたが。

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英語を学ぶこと自体が目的ではなく、身につけた英語力を何に使うのか、つまり英語を手段だと考えないと楽しみは広がらないと思います。 サンディエゴに留学して実感したのは、いろんな国から人が集まってくるため、多種多様なバックグランドを持った人と知り合うことができました。これは留学の醍醐味のひとつです 。英語はそういう人たちをよく知る為のコミュニケーションの道具にすぎないということです。 だからこそ、肩肘はらずにリラックスして楽しみながら、学んでいくのが大事だと思います。

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「英語は手段だよ」って話しをすると、「あたりまえじゃない」っていう人が多いのですが、これは非常に大切な部分です。 
まず、面白いのは、日本の一流と呼ばれる大学の在学生や出身者に限って、その違いが曖昧な人が多いということです。 一流大学を受験するには英単語だけでも一万語ぐらい暗記しないといけないですし、和訳のテクニックや、あまつさえ出題者の意図を読み取ってそれに沿った解答の仕方も覚えないといけない。 これらの英語本来の面白さと全く関係ない部分に、勉強時間をさかないといけなかったのです。そういうことに血道をあげてきた人たちに、「英語は世界を知るための手段にすぎないんだよ」と言っても、理解しにくいのだと思います。

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一流大学に通っている人が、仮に留学した場合、英語の上達は比較的早いものです。 やっぱりそういった高いポテンシャルを持っていることは、留学カウンセラーをやっている立場上よくわかります。 だからこそ、受験英語だけを経験して、英語本来の楽しさに触れないまま、英語から離れていく人はかわいそうであり、もったいないと思います。

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もう一点、これは日本の英語教育のせいかどうかは分かりませんが、
「英語なんか大嫌い、英単語を見るのも嫌だ」っていう人が、周りに必ず何人かいませんか? 
本来、英語(外国語)を習得することは学問ではないと思うので、机に向かって徹夜でガリ勉ではなく、楽しみながら学ぶことが許されてよいと思います。 
その環境作りを日本の教育現場が提供することができないのであったら、それを提供してくれる場所で楽しく学べばいいだけの話しです。
英語塾なんかそういった受け皿として、子供たちの役に立ってほしいと思いますし、自分も留学カウンセラーとして、英語を学ぶモチベーションや楽しさなどを、留学希望者にどんどん提案していきたいと思っています。

英語学習にはワクワクすることが大切だと私は思います!

秋山 千佳(Chika Akiyama)さん (役員秘書

大阪府生まれ。 京都女子大学 英文学科卒業。 
レコード会社勤務を経て、大手新聞社にて役員秘書として活躍。 現在は育児に奮闘中。

<英語のイメージ>

私は留学したことがありません。 そして、ご多分に洩れず、勉強嫌いでした。 そんな普通の女のコが、自力で英会話を身に付けてきたのです。

  幼い頃から社交的で前向きな私にとって「英語=無限の世界」でした。 中学校で英語学習が始まった時は嬉しくて仕方ありませんでした。 どれだけ多くの人と出会い、新しい世界が見られるのだろう、と。 ポジティブな私は、将来自分が流暢に英語を話す姿を想像し、確信していたのですから若さは無敵です・・・。
残念ながら他の教科ではこんなワクワク感はありませんでした。 英語だけ。 ただ、このワクワクが20年も続いています。 続いているからこそ身に付いたのですから、やはり学習にはワクワクすることが大切だと実感しています。

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<普通の女のコの英語学習年表>

私の英語学習の履歴です。 英語は使うチャンスがないと面白くないというのがよく分かります。

中学 ・・・ 英語の授業が始まる。 基礎を始めたばかりのころ。
カナダ人講師がやって来て、モチベーションが上がる。
習ったばかりの簡単な、少ない単語でも会話が成立することに気づく。

高校 ・・・ 受験としての英語学習。
単語を大量に記憶したり、読解問題を解くばかりの面白くない授業。
両親に海外留学を懇願し、断られる。
この頃から、大学生になったら自由に海外へ行きたいと思うようになる。

大学 ・・・ 英文科へ入学。
英文学、英会話、文法、発音、英語学、様々な方向から英語を学ぶ。
両親に交換留学を懇願し、断られる。
自分は心配性の両親に頼っていては留学できないと感じ始める。

留学せずに留学しているみたいな環境を自分で作ろうと決意。

大手英会話スクールで受付のアルバイトをスタート。 
アルバイト先ではネイティブの講師たちと積極的に交流。
公私ともに交友関係を広げ、大学でもアルバイトでも英語漬けの毎日。
ある一定時間を超えた時、『英語脳』が出来始める。

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<アルバイト初日の自己紹介>

それなりに、教育課程で英語を学んで来た私にとって、英会話スクールでアルバイトを始めることには、全く不安もありませんでした。
初日を楽しみにしていて、外国人講師とも、簡単な挨拶くらいは出来ると思っていました。

ところがある講師が明るく近寄ってきて…

講師 「HI! 名前は? 新人スタッフ?」(英語で)
私 「はい、新人スタッフです。 大学生なのでアルバイトです。 名前は千佳です」

緊張しながらも、ここまでは良かったのです。

講師 「大学生? 何を専攻してるの?」
私 「・・・English・・・」

専攻は「英文学」なのに≪literature=文学≫が出てこないのです。

恥ずかしながら、それまで発音したことのない「literature」を発音できず、自分が何を専攻しているのか、そんな基本的なことさえ表現できなかったのです。
私は今まで何をやっていたんだろう…本当にショックでした。
自分のことくらい、英語でちゃんと言えるようにならなきゃ恥ずかしい。 英単語や文法を知っているだけでは意味がない。 
身の回りのことを、すべて英語に置き換えて考えるようにしようと、と思った、衝撃の初日でした。

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<学校の英語から使える英語に変わったとき>

英語が話せるきっかけとなったのは、前述のとおり大学での勉強と英会話スクールでのアルバイトです。 机で勉強して、体当たりで実践する生活が丸三年。 大学の休暇中はアルバイト代で海外旅行へ行き、五感で世界を旅して、様々なことを吸収して帰りました。

当時の私は、常にポケットサイズの辞書を持ち歩き、視界に入る物事を片っ端から英語に置き換え、分からなければ辞書をひきました。 そしてネイティブの友人との会話でその言葉を使う、そんな繰り返しをして楽しんでいました。

英語漬けの毎日は、決して辛くはなく、習得すればするだけ良いことづくしでした。

留学経験のない私が、帰国子女のクラスメイトより、英語のスピーチで高い成績をもらえたことは「留学できなくても頑張ればできるんだ」という達成感と充実感で胸が一杯になりました。

アルバイト先での仕事も英語でこなせるようになり、講師とのコミュニケーションがスムーズになっていきました。 受付業務以外にも、講師のスケジュール管理や、新人講師のトレーニングにも参加するようになりました。

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<帰国の飛行機での出会い>

私のように、貧弱なボキャブラリーでも、完璧な英語でなくても、よく使う英語から自然に習得していったので、簡単な英語でのコミュニケーションは問題なくなりました。
大学の休暇を利用して行った海外旅行では、アメリカから帰国する飛行機で隣に座っていたおじいさんと仲良しになりました。
医療関係のお仕事で来日されていたのですが、次回の来日で、私に通訳をしてほしいと依頼してきました。私の英語は医療関係の場で通用する高いレベルではないことを伝え、お断りしたのですが、日常会話で十分だからということで、結果3日間も手伝わせて頂きました。
本当に貴重な経験をさせてもらったおじいさんに、感謝してもしきれなかったです。
それ以来交流が続き、私の卒業、就職、結婚、出産、毎年のお誕生日におけるまで、人生のイベント毎に毎回手紙やメール、プレゼントなどで連絡をくれます。
年の離れた、私のアメリカの父であり、大切な友人の一人です。

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<英語のある生活>

英語を身に付けると、特に英語圏の海外旅行は、一段と楽しく、便利になります。 文化やマナーが違っていても、英語でやり取りができる限り、海外でも自由に行動することが出来るからです。 もしトラブルに遭ってしまっても、自分で対処できるので安心です。 ちなみに、タクシーでぼったくりにあうこともありません。

海外に行かなくても国内の日常生活だって変わりました。

例えば… 
・英語の夢を見る。 
・映画館で洋画の字幕を追いかけなくて済む。(全ての映画ではありませんが。) 
・外国人に道を聞かれたら正しく教えてあげられる。
・英語で書かれたホームページを閲覧できる。
・外国人の集うレストランやバー、クラブでも楽しくコミュニケーションができる。
・海外のアーティストのコンサートでMCが聞き取れる。
・英語の本やテレビが楽しめる。
・会社での英語の電話や文書、来客に対応できる。
・海外の文化に触れて、日本の良いところを再認識する。

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<英語から離れた生活のこれから>

育児に専念している今、徐々に英語漬けの生活から離れ、現在の私は『英語脳』ではありません。
しかし、一度『英語脳』になった経験をしている限り、ある一定時間、英語に触れると、また徐々に回復してきます。
最近は、一歳の娘と一緒に英語のテレビ番組を楽しんだり、英語の絵本を読んであげたりしています。
娘には、幼少期から英語の英才教育をするつもりはありませんが、私が一緒に楽しんで、彼女の隣でもう一度英語に取り組めば、きっと娘も英語好きになるだろうと思っています。
私より、もっと多くの科目にワクワクして、勉強好きになってくれたらいいな、なんて、ちょっと欲張りながら育児に奮闘中です。
まだよちよち歩きの娘と二人でいつか海外旅行を楽しめる日を夢見て。

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<最後に…>

最後に、英会話スクールの元スタッフの視点から。
私の勤務していた英会話スクールには、幼児から高齢者まで、年齢も職業も多種多様な生徒さんが在籍していました。
その中でも、飛ぶ鳥を落とす勢いであっと言う間に上達する生徒さんと、何年通ってもダメな生徒さんがいました。
その決定的な違いは、目の輝きと能動性です。
ダメな生徒さんには、「やらされている感」が漂っており、受動的でした。
上達する生徒さんは、レッスン前からレッスン後まで、目がキラキラしていて本当に楽しそうでした。
英語が話せるようになりたい、話せるようになったら○○がしたい、などの目標を持って楽しく頑張るとすぐに上達していきます。

やはり、英語学習にはワクワクすることが大切だと私は思います!

人生は、英語によってとても大きな世界に開けた

福原顕志さん (フリーランスTVディレクター)

カリフォルニア州オレンジ郡在住
1967年 広島県生まれ  神戸大学文学部心理学科卒
Central Washington University留学
NHK 報道番組部勤務
1996年渡米、以後フリーランスTVディレクター

私は現在、ロサンゼルス郊外で、テレビ番組のディレクター/コーディネーターをしています。日本のテレビ局からの依頼や自らの企画に基づいて、アメリカで日々取材をし、日本の視聴者に向けて情報を発信するのが仕事です。
主にドキュメンタリーや情報番組を制作しているので、日常的に英語でニュースを見聞きし、新聞や雑誌を読み、ネットで情報を集め、取材相手と連絡を取り、英語でインタビューを行う、というのが仕事の流れになります。
アメリカに渡ったのは1996年なので、今年で14年になります。 英語は私にとって、今や必要不可欠なものです。 でも、私の英語との出会いは、ごくありふれたものでした。 どうやって今に至ったのか、遡ってお話します。

【日本から飛び出したかった】

中学校、高校と、私にとって英語は特に好きでも嫌いでもない、学校で勉強する科目の一つでした。それでも生意気に、「先生の発音は悪いなー」「あんなのでガイジンに通じるのかなぁ」などと思っていたことは記憶しています。 しかし、受験英語に発音は関係なく、単語を憶え、読解さえ出来れば、テストでは困りませんでした。 そんな風にして、特に英語で苦労することも、得をすることも無く、大学まで進学します。

転機は大学時代に訪れました。

元来、目立ちたがり屋で、自己主張の強い私は、日本の学校教育システムに馴染みませんでした。「なんで、みんな同じ服を着せられ、同じように考え、同じような行動を取ることを強いられるんだろう。 もっと自由でいいじゃないか。」と日々思いながら育ちました。 一方で、開放的で自由を重んじ、個性を伸ばすイメージのあるアメリカには、漠然とした憧れがありました。 受験戦争を経て大学に入り、しかし入ってみればバイトとサークルに明け暮れるだけの学生生活に失望した2年生の時、アメリカ留学を決意します。

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【挫折、そして外国人留学生が教えてくれたこと】


ワシントン州の田舎町にある州立大学に留学しました。 1998年の春です。 選んだのは、最も日本人が少なかったからです。 バイトで貯金したお金での自己負担の留学なので、一年分しか費用が出ず、限られた期間で精一杯英語に触れようと思いました。 満を持しての留学、憧れのアメリカ。 でも渡ってみれば、相手の話している英語がさっぱり聞き取れません。 マクドナルドでさえ、メニューの写真を指差して注文するのがやっとでした。 読み書き主体の受験英語は、何の役にも立たず、私の自信はズタズタに引き裂かれました。

聞き取れない、聞き直しても通じない、アメリカ人と対峙するのが怖くなる・・・そんな悪循環が続いていた頃、あることに気付き始めます。 きっかけは、他の国からの留学生が与えてくれました。 当時私はアメリカ人と話すとき、完璧な発音をしないと通じないのではないか、と萎縮し緊張していました。 それが、アジアや中東からのクラスメートたちと話すときは、比較的リラックスして話せるのです。 それは、お互い外国語である英語という手段を通じて理解し合おう、という気持ちがベースにあるからだと思いました。 少々発音が悪くても、相手は聞き取ろうと努力してくれるし、こちらも一生懸命伝えようと努力します。 それに気付いてから、私の英語への考え方は一変します。学生時代、英語は学ぶ科目の一つ、すなわち学問でした。 なので、よく勉強できれば優秀だし、できなければ無能、と考えがちでした。 その意識から、アメリカ人と対峙して、彼らの半分も英語を話せないとき、自分は彼らよりも劣っているように、思ってしまいます。 しかし、英語はコミュニケーションの道具に過ぎない、と気付いてからは、むしろ「他の言葉を話せないアメリカ人のために、私達があなたの言葉を使ってコミュニケーションをしている」というくらい大きな気持ちで構えるようになりました。 それ以来、アメリカ人に向き合っても、臆することなく、堂々としていられるようになりました。 それから、私の会話力は徐々に伸びて行ったと思います。

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【悔しさをバネに】


留学中にもう一つの出会いがありました。それは映画です。
人口7千人の田舎町には、娯楽らしい娯楽はありませんでしたが、映画館は二つありました。 新作映画は、数ヶ月遅れてやってきましたが、その分二本立てでなんと当時1ドル50セントで見られました。 英語の聞き取りの練習のためにも、毎週のように映画館に通いました。 でも、最初は内容の半分も分からず、フラストレーションは溜まる一方でした。 面白いのはアクションシーンだけで、会話主体のシーンになるとついていけなくなり、終わった後も疑問ばかりが残りました。 コメディーでは、周りのアメリカ人が笑う中、ひとり笑うタイミングを逃し悔しい思いもしました。 それでも、ハリウッド映画の持つスケール感や映像美に見せられ、毎週通い続けました。 留学が終わるまでには、きっとアメリカ人と同じタイミングで笑えるようになってやる、という密かな目標を持ちながら。 結局、その年に公開されたハリウッド映画は全て見尽くした、と言ってもいいくらいです。 一年間の留学が終わった時には、おそらく7割くらいは映画の内容は理解できるようになっていたと思います。

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【日本を再発見】


日常生活でも、会話の7-8割が分かるようになってくると、アメリカ人のモノの考え方や価値観も段々分かってきました。 それは、留学前に漠然と抱いていた「自由で開放的なアメリカ」という単純なものではなく、個人主義、利己主義などの側面も伴い、日本人にとって全てが肯定的とも思えないものでした。 そんな風に英語が分かるにつれて、アメリカという国そのものへの理解も深まって行きました。 逆に、「閉鎖的で画一的」と否定的に感じていた日本社会にも、外から見てみると協調性や思いやり、という素晴らしい側面があることにも気付かされました。 そうして、私の一年間のアメリカ留学は終わりました。

帰国後は、神戸で残りの大学生活二年間を過ごします。 バイトは再開しましたが、今度は英会話学校で日本人講師として働きました。 そこでは、日本人講師はビギナーを担当し、レベルが上がると外国人講師に引き継ぎます。 このバイトを選んだのは、より多くの人に自分と同じように、英語で会話することの面白さを知って欲しい、という気持ちと、一緒に働く外国人講師たちと付き合うことで、自分の英語力をもっと伸ばしたい、という気持ちがありました。 一年間の留学だけでは、英会話能力は十分ではありません。 結果的に、その後の二年間、外国人講師と日々英語で過ごす中で、私の英会話能力は、さらにブラッシュアップされた、と思います。

それから私は、大学を卒業しNHKに就職しました。 留学中に見たハリウッド映画の影響が大きかったと思います。 映像と音声で人に情報と感動を伝える媒体に魅せられ、関係する仕事に就きたいと思っていました。 しかし、入社時からいつかまたアメリカに戻りたい、という野望は密かに持ち続けていました。 NHKで4年間ディレクターを勤めた後、転勤をきっかけに辞職し、単身アメリカに渡りました。 1996年のことです。

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【アメリカで二度目の挑戦】


アメリカに再び渡ってからは、それまで温存してきた英語力を呼び覚まし、フリーランスとしてTVディレクター/コーディネーターの職に就いています。 アメリカでこの仕事を再開して14年になりますが、今も勉強の毎日です。 ディレクターとしての仕事内容は、基本的に日本でしていたことと変わらないのですが、日本人とは気質の違うアメリカ人を相手にすると、取材のアプローチの仕方も大きく変わってきます。 取材交渉では、日本のように情に訴えるやり方は通用しないので、取材に応えてもらう意義やメリットを合理的に説明する力量が問われます。 インタビューで、心の奥底にある不安や苦悩を引きだそうとしても、常に前向きなアメリカ人はポジティブなことしか言わず、困る場面も多いです。 逆に、日本人に対してはちょっと聞き難いようなデリケートな質問も、ストレートにズバリと聞いた方がいい答えが返ってくることもあります。また、番組では科学や医療、経済や政治など様々な分野のテーマを扱うので、時に専門的な英語も要求されます。新しい題材に出会うたび、新しい発見があり、知らなかった英単語や言い回しを覚えるのは当然ですが、まだまだ底知れないアメリカという国への理解も少しずつ深まっています。

取材では、アメリカだけでなく、ヨーロッパやオーストラリアなどへも遠征します。「西洋人=アメリカ人」と思いがちですが、国が違うと実に様々な人間模様や考え方があると、気付かされます。そんな時、留学時代に他国の留学生と初めて心を通わせて話せた、あの感動が蘇ります。英語を介することで、世界中の色んな人と出会い、実に色んな人生に触れる事ができました。
私の人生は、英語によってとても大きな世界に開けた、と感謝しています。

運は信じるから味方につくものである

山本 デービッド(David  Yamamoto)さん (球団国際スカウト)

アメリカ、ロサンゼルス生まれ。幼少より日本人学校に通い、英語と日本語のバイリンガルとなる。
Purdue Universityに在学中、奨学金にて広島大学へ留学。 
卒業後はバイリンガルの能力を活かしてロサンゼルスの貿易会社に就労したが、大きな転機が訪れ、
日本人メジャーリーガーの通訳・マネージャーに転職。 選手の帰国に伴い、能力を高く評価されて、
日本の球団からの誘いで国際スカウトに就任。 現在は、アメリカにて常に優秀な外国人選手を探している。

~自分~

私は現在、日本の球団の国際スカウトをしています。 つまり、アメリカにて外国人の選手を探す職業です。 昨年までの2年半は、メジャーリーグにて日本人選手の通訳・パーソナルアシスタントをしていました。 
私自身は高校まで野球をやっていて、プロの野球選手になる夢から脱落した1人です。 野球は私の全てでした。 高校ではアメリカ選抜に選ばれた事もあり、夢が叶う実感を感じた事もありました。 しかし、肩を怪我してからは、ほぼリハビリの毎日。 結局、最後のシーズンを無難に終えて、プロへの夢は諦めました。 当時は「野球の神様」を非常にうらんだ記憶があります。 正直、私は一生グラウンドにいたい人間でしたので、悔しさでいっぱいでした。

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高校を卒業し、アメリカのIndiana州にあるPurdue Universityへ通いました。 具体的に自分は何をしたいのか分からず、1年が過ぎた頃、最初の大きなチャンスがやってきました。 それは文部省の国費留学でした。 大学の先生に進められて応募したため、当時はまったく受かるとも思っていなく、正直、無駄だと思ってました。 ところが、応募した2000人の中の最終20人に選ばれ、驚くと共に、ここまで来たら絶対にチャンスにしてやろうと思いました。 結果的にシカゴの領事館での最終審査で私が選ばれることとなり、日本への貴重な留学体験が出来る事となりました。 この時、なぜ自分が選ばれたのか不思議で仕方なかったのですが、きっと、完全なバイリンガルであるということが決め手だったと思っています。

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大学を卒業してからは、ロサンゼルスに戻り、貿易会社で働きました。 バイリンガルという強みを活かして仕事をしたかったからです。 しかし、入社はしたものの、想像していた仕事とは全く異なり、私の中では進むべく方向の分からない場所に迷いこんだ気持ちでした。 そして、自然とプロ意識が持てなくなっていました。 
そうこうするうちに、貿易会社で3年の月日が経ちました。 そんな頃、再び大きなチャンスがやってきました。 日本人メジャーリーガーが、通訳兼マネージャーで野球能力の高い人間を探しているとのことでした。 
私は選手と代理人との面接で、自分の熱い気持ちと、今までの経験を素直に話し、そして、夢も語りました。 自分のハートの中には、いつも野球を諦められない自分がいました。 しかし、いったん離れた野球界は、既に雲の上の世界となっており、もう二度と関る事の無い世界だと思ってました。 そんな強い思いを救ってくれたのは、私の野球への想いと、バイリンガルという強みでした。 そして、見事にそのチャンスを掴む事が出来たのです。

その日本人選手はメジャーで数年活躍した後、現在、日本に戻っています。 私も運良く日本の球団から誘いを受け、今の国際スカウトのポジションに就きました。 現在のスカウトの仕事も、これまでの通訳の仕事も本当に天職だと思っています。 自分とは関係の無い世界だと思ってたので、このような仕事に就けるのは不思議な気持ちと幸せな気持ちでいっぱいです。 
私は、怪我を夢に届かない理由にしていたようです。 最終的には自分に実力がなかったのです。 それに気づかず、迷子になった自分を救ってくれたのは「英語」であり、「日本語」であり、「バインガル」という能力でした。 ふと気づいた時に僕に残っていたものは日本人という立場からの卓越した英語力だったのでした。 (英語力のみであれば、アメリカ人と変りません。 日本人としてのアイデンティティーをもち、日本語も英語も全く問題のないバイリンガルであるということが私の強みでした)

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~バイリンガル~

私は多分、皆さんと逆で、生まれてまだ日本語がしっかりしていない状態からアメリカの現地の幼稚園に通い、英語が先に出来るようになりました。 そのため、今でも物事を考える時は英語が中心だったりします。 
私が子供の頃、家の中では日本語でしか話してはいけない決まりがありました。 もちろん、私は英語の方が得意だったので、両親が決めたこの規則を全く理解できませんでした。 特に子供の頃は、友達の多くがアメリカ人だったので、なぜ自分だけ辛い想いをして、2ヶ国語も習わないといけないのか納得いきませんでした。 
私は今年で丁度、29歳になるのですが、今は両親に感謝の気持ちでいっぱいです。 あれほど理解できなかったことが今になって全て理解できます。 あれほど嫌いだった土曜日の日本語学校や、高校での日本語クラスもすべて意味があることだったと思ってます。 ようやく、多言語をマスターすることの重要性と意義が理解できるようになったのです。

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~幸せ~

メジャーリーグでもそうですが、日本に留学した時も本当にいい人たちと巡り合うことができました。 少しのことが運命を変えて、素晴らしい人に出会うチャンスを作ってくれていると感じています。 人は周りの人の力を借りて自分を形成しているのだと思います。 そのため、「出会い」は非常に大切なことです。 野球界に戻ってからも、素晴らしい人たちと出会えたこと、そして、彼らと共に毎日仕事ができたことはかけがえのない幸せです。 2008年は特に、私の所属していたチームがメジャーリーグで優勝し、世界一になりました。 おかげさまで、最高な幸せを実感できた年となりました。

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~将来~

私が日々思うことは、あのチャンスが無ければ一生夢に向かうことなく、やりたくも無い仕事をしているサラリーマンで終わっていたかもしれないということ。 本当に好きな野球の世界で仕事ができているので、自分の限界を確かめて見たいという願望があります。 目標は常に高く設定しており、いつかはメジャーリーグで日本人として初のGMに就任することを夢見ています。 選手だけでなく日本人がメジャーリーグで通用することを証明し、多くの日本人に夢を与えたいと思っています。 もちろん自分ではないとしても、ぜひ日本人のGM就任は実現して欲しいと、心から願っています。

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~語学~

目標を高く持つことはとても大切だと思います。 人間の力とはどこまで発揮されるか全く分からないものです。 夢は大きく持って、世界へとチャンレンジするべきだと思います。 世界の壁はとても高く感じるとは思いますが、WBCでの侍ジャパンのように日本人は世界で通用するのです。 やはり世界で戦っていくためには、色んな意味で「英語」が最低条件であり、かつ最も強い武器となるのではないでしょうか。 もちろん、沢山の外国語があり、多くの言語を知っているほど役立つとは思います。 しかし、世界で一番使われていて、どこの国でも比較的通用する言語は「英語」です。 1つ忘れていけないのが、今この時点で英語を学ぼうか迷ってるのであれば、既にチャンスを引き寄せているのです。 人間、いつチャンスが訪れて、人生が変わるかは分かりません。

~3 Motto:3つのモットー~

最後に私が日々、心の中に思い出す事です。

Luckとは

実力とチャンスが一致する瞬間。

後悔せず生きる事。

運は信じるから味方につくものである。