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完璧な英語を話そうとする必要はありません

Michiko Hirataさん(ESLインストラクター、第二言語としての英語講師)

日本の大学にて教育学部を卒業後、
カリフォルニアのUCI (Universtiy of California, Irvine)にて英語教授法を学ぶ。
その後、USC (University of Sourthern California)の修士課程を終え、エルカミノカレッジにて多国籍の生徒に英語を教える。
同時に、ロサンゼルスにある日本人学校、朝日学園にて歴史、地理などの教科を教える。
現在は、子育てに奮闘している。

最初に英語に目覚めたのは映画を通じてでした。 現在、アメリカから日本を見てみると、日本には世界に誇れる技術を持っている人々が沢山いることに気付かされます。 しかし、それらの才能を海外で開花させる上で「言葉の壁」が大きな障害になっているのではないかと思わずにはいられません。 国際的に通用するコミュニケーションツール(すなわち英語)が使いこなせるということは、これからの時代には不可欠です。 私は、英語が使いこなせないために色々な場面で弱腰になっている日本人を数多く見てきて、ずいぶん歯がゆい思いをしてきています。

私が生徒としてアメリカへ渡米したのは1999年のことです。
UCI(University of California, Irvine)で初めてアメリカの授業に参加して、まず話せないという致命的な壁にぶちあたりました。とりわけ英語教授法という分野を学ぶコースに入り、周りにはベテランのアメリカ人の教師がずらりという環境だったので、その壁に随分悩まされることになりました。
ここでは日本で英語を学んだ6年間が、とりわけスピーキングとリスニングに関して、ほぼ何の役にも立たないことに腹立たしさを覚えたものです。また、クラスメートにも日本で6年間の英語教育を受けたこともなかなか言えませんでした。しかし、そこで経験した悔しさと、学んだ英語教授法を通して、英語そのものを深く学んだことで、日本での英語教育の遅れ、未熟さにに改めて気付かされることになりました。それが、私を大学院でもっと専門的に英語教育を学びたいという気持ちに駆り立てました。

USC(University of Southern California)では、文法、言語学、文化や国による発音・イントネーションの弱点、スピーキング・リスニング教授法、リーディング教授法、カリキュラム構築にいたる言語教育に関わるあらゆる事柄を専門的に学びました。
そんな中で、日本の英語教育の大きな間違いに何度も気付かされたものです。スピーキングやリスニングなど、日本人が苦手とされる分野はさることながら、日本人がメカニカルに学んできた文法でさえ、間違った概念を教えられていたのです。完了形などはその代表例です。 日本では完了用法だの、経験用法だの、見分け方も複雑で、いつ、どんな時使っていいのかも分からないまま終わってしまう生徒たちも多いことでしょう。
私がTESOL(英語教授法)で学んだ完了形というものは、確かに日本語にない概念なので使い慣れるには多少の時間がかかるのは仕方ないにしても、もっと簡潔で分かりやすいものでした。 当然、完了・経験だの、ややこしい分け方もありません。

文法というものは完全ではありません。いちおう形態だてて作られてはいますが、言葉という複雑なメディアには多くの例外があります。 たとえば日本語でも、外国人に「どうしてここは’が’じゃなくて’を’なの?」と聞かれた時に答えられないことがあるように、英語も同じです。ですから、日本の英語教育のように、やたらに文法の正確さにこだわり、スピーキングやリスニングなどの実用的なスキルがなおざりになるのは、言語を習得する上で非常に非効率的だといえるでしょう。

そんな大学院生活も終わりかけた頃、今後の進路について考えた時に、私は出来ればアメリカに残り、仕事を見つけたいと思っていましたが、ESLの教職は競争が激しく、なかなか得られないと聞いていましたので、ESL教師以外の仕事も視野に入れて就職活動をしていました。 なかなか思うようにいかない就職活動をしながら、同じクラスにいた留学生が続々と帰国する様子を見て、私も何度か挫折しかけたものです。おおむね、クラスメート達は最初から、第2ヶ国語である英語をTESOLを習得したからといって、いきなり教えられるはずがないという気持ちだったようです。私も全くそう思わなかったかというと嘘になりますが、それよりもやってみたいというチャレンジ意欲の方が勝っていました。

就職活動では興味深い経験もしました。 一度、日本人女性の生徒が多い語学学校でのジョブインタビューで、「ここでは金髪、ブルーアイの若い男性教師が受けるから」という理由で断られたことがあります。セクハラのようにも取れますが、私は「実際にそんなもんなんだろう」と妙に納得してしまいました。やはりそこはビジネスなので生徒に好かれる教師を雇いたいというのは最もな話です。
そういうオーナーが親切にも教職探しに効果的な履歴書の書き方や、ポートフォリオの作り方を教えてくれたのは笑える話です。しかし、そこには白人教師しか信頼できないという日本人の偏った英語教育観を垣間見た気もしました。ただ、ちゃんとした大学が運営するESLはインタビューもテスト授業も、人種や出身国などは全く関係なく、純粋に教師としての適正能力のみで判断してくれたのは、多民族国家で世界中の人々を広く受け入れているアメリカの度量の大きさといわざるを得ません。

そうして約6ヶ月の就職活動の末に得たのが、カリフォルニア州トーレンス市にあるエルカミノカレッジのESLでの教職でした。英語教授法を学ぶため、最初に渡米してからわずか3年後に自分が英語を教える立場になるなんてまるで嘘のようでした。 喜びと恐怖の入り混じった不思議な興奮状態にあったことをはっきりと記憶しています。

エルカミノでの最初のセメスタはインテンシブ(集中講座)のライティングのクラスでした。 期間は通常の半分ですが、インテンシブというだけあって、1回3.5時間の授業が週3回という大変なものでした。 また、ライティングは30人ほどの生徒のエッセイを添削しなければならないため、とにかく週末も机から離れられなかったのを覚えています。レッスンプランの作成からアクティビティやクイズ作り、テスト作りなど、しなければならないことが山のようにありました。その上、初めての実地での教師経験で、プレッシャーも大きかったので、心身ともに随分と消耗しました。 
しかし、元来、仕事に関しては完ぺき主義なところがある私は、次のセメスタになっても次のセメスタになっても力が抜けず、どうしたらよりよい授業が出来るだろうかと日々朝から晩まで頭をひねらせたものです。そんな努力が実ってか、生徒達から「先生の授業が一番分かりやすい」と言われるようになった時は、心底努力が報われた気がしました。

USCで専門的にTESOLの勉強を始めて、改めて日本人の弱点と長所が見えてきましたが、私がそれを確信したのはエルカミノカレッジというコミュニティカレッジのESLで教鞭をとり始めてからでした。私は新米教師ということもあり、夜間のクラスを任されることが多かったため、生徒の多くは南米からの移民の人々でした。 しかし日本人を含むアジア人の生徒も少数派ながらいました。

私の経験から言いますと日本人はライティングに関してはまずまずの力を発揮します。日本でのメカニカルな文法の特訓が実を結んだ数少ない成果です。勿論、アメリカンアカデミックライティングのstraightforward な構成は日本のエッセイライティングにはありません。 結論が最初に来て、そのサポートを後に述べるという文章構成に慣れていないので、その部分は多少訓練する必要がありますが、日本人生徒はそれを割りと楽に習得します。ただ、自分のオリジナルな意見を表現することに慣れていないため、その理由付けの部分の内容がやや薄くなってしまうのは致し方ないのかもしれません。しかし、それもアメリカで多くのライティングやそれに伴うディスカッションなどをこなしていくうちに慣れてくるものです。

一方、スピーキングやリスニングとなると突然消極的になってしまいます。 他国の生徒の意見に流されやすいという面も見られました。もちろん、積極的に自分の意見を伝えようとする生徒もいました。饒舌で誇り高いヨーロッパ人や陽気で話好きな南米人は、ハッキリと自分の意見を述べる傾向にあります。また韓国人や中国人の多くもシャイではありません。でも、日本人の口からはなかなか英語が出てこない、また、他生徒の意見に同調しやすいのは何も日本の生徒に考える力がないわけではなくて、「英語」を話そうと肩に力が入りすぎて、流れの早いデスカッションなどに上手くついていけないだけなのです。 実際、私が教えた日本の生徒達の多くは聡明で、文法も内容も立派なエッセイを書いていました。それだけに、日本人の生徒が持っている実力を100%発揮できないのは同じ日本人教師として歯がゆく思ったものです。

私が自らの教師経験を通して思うのに、英語習得に必要なのは
1に勉強、努力。
2に違ったものを受け入れる大らかさ。
3に英語教育に抱く偏見を捨てること。
そして、それらを成した後についてくる自信が、英語で自分を表現する上で何よりも大切なのです。

まず、努力・勉強を無くして、英語の習得は不可能です。机に向かって英語を勉強していなくてもアンテナを張り巡らし自分の周りにあるあらゆる英語に注意を向ける必要があります。そういう意味では英語という言語に、より強い興味を抱いている生徒や、英語を学ぶ必要に迫られている人のほうが上達が早いのはうなずけます。よく、その土地で暮らせば話せるようになるだろうとたかをくくっている人もいますが、私はそれはありえないと思います。日常会話には困らないかもしれませんが、ネイティブのように話したいのなら、それなりの時間と労力を費やす必要があります。 実際、アメリカに暮らして10年以上経っても英語がつたない人は掃いて捨てるほど見てきましたし、アメリカ人と結婚している人でも英語が不得手な人は数多くいます。 私の英語力が最も伸びたのもアメリカでの学生生活の中で、寝る間も惜しんで勉強した最初の1年と、ESLの教師として働き始めて、教えるという立場から改めて英語を集中的に勉強した(プロとして授業中"分からない"ということは許されないと思っていましたので)時期です。

次に、これはあくまで私の主観ですが、その土地の文化や生活に馴染んでいる人ほど英語が上達しているような気がします。これも、結果的には話したいという意欲の問題に通じているのかもしれませんが、その土地の文化や生活に心を閉ざしがちな人は、なかなか言葉の上達は難しいようです。嫌いな食べ物を好きになりなさいといってもなかなか難しいですよね。そうかといって、ではその国を好きにならないと言葉が伸びないと言っているのではありません。 日本人にありがちな白黒つけるのではなく、そもそも、どの国も良い所も悪い所もあるため、それを受け入れる必要があるのです。 ですから、例えば嫌な経験をしてしまっても、「そんなもの」と大らかに構えるほうが良いのです。そもそも完璧な場所も人もいないからです。

第3に英語教育に対する偏見は是非捨てて欲しいものです。白人にしか英語を教えることが出来ないという考え方はきっぱり捨ててください。私も詳しい事情は知りませんが、日本のインターナショナルスクールや語学学校では色々な国の教師が英語を教えているようです。しかし、英語圏の国々を見ても、発音の仕方やイディオムなど、国それぞれに実に様々です。そこで、私はつい思ってしまうのです。どの国の英語を教えているのかな?と・・。 例えば、オーストラリアで使われているイディオムやスラングをアメリカで使ったらそれはやはり変なのです。アメリカに留学しようとしている生徒が、イギリスの発音を学ぶのもちょっと違うと思いませんか? 
一度、日本のある観光地で、日本の英語学校で英語を教えているという外国人に会ったことがあります。 明らかに重いヨーロッパ訛りが聞き取れる英語を話していました。 私はここでもやはり何か変だと思いました。肌の色や彫の深い顔立ちだけで教師を選んでいるのかしらと思わずにはいられませんでした。 やはり、日本でもそういった学校は真摯に英語教育と向き合うよりも、ビジネスに徹しているのかしら?と考えてしまいます。もちろん、訛りのある人が英語を教えてはいけないと言っているのではありません。むしろ若干の訛りがあっても(スピーキングを教える教師は無いほうが好ましいですが)、英語という言語に精通している人、きちんとした英語教育の訓練を受けている人に教えて欲しいと思うのです。

そういう意味で、逆にカスタマーである生徒がもっと賢くなる必要があります。見た目が良いというのではなく、能力のある教師を置いている学校だろうか、教える内容に統一性を持たせているだろうか(個人的にイギリス英語やアメリカ英語がごちゃ混ぜになっているのは好ましくないと思います)という点に注意して学校選びをして欲しいと思います。その学校で教えられているのはどこの英語か、国籍がどこであれ、その教師がどれほど英語という言語に専門的に精通しているかなど最低限それぐらいのことはプライドを持ってこだわって欲しいものです。

これらを踏まえて英語を一生懸命学んで下さい。 近い将来きっと自信を持って、国際舞台で自分を表現できる人になっているはずです。 完璧な英語を話そうとする必要はありません。 しかし、言いたいことが言える、伝えられる日本人がもっともっと増えてくれることを期待しています。

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