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人生は、英語によってとても大きな世界に開けた

福原顕志さん (フリーランスTVディレクター)

カリフォルニア州オレンジ郡在住
1967年 広島県生まれ  神戸大学文学部心理学科卒
Central Washington University留学
NHK 報道番組部勤務
1996年渡米、以後フリーランスTVディレクター

私は現在、ロサンゼルス郊外で、テレビ番組のディレクター/コーディネーターをしています。日本のテレビ局からの依頼や自らの企画に基づいて、アメリカで日々取材をし、日本の視聴者に向けて情報を発信するのが仕事です。
主にドキュメンタリーや情報番組を制作しているので、日常的に英語でニュースを見聞きし、新聞や雑誌を読み、ネットで情報を集め、取材相手と連絡を取り、英語でインタビューを行う、というのが仕事の流れになります。
アメリカに渡ったのは1996年なので、今年で14年になります。 英語は私にとって、今や必要不可欠なものです。 でも、私の英語との出会いは、ごくありふれたものでした。 どうやって今に至ったのか、遡ってお話します。

【日本から飛び出したかった】

中学校、高校と、私にとって英語は特に好きでも嫌いでもない、学校で勉強する科目の一つでした。それでも生意気に、「先生の発音は悪いなー」「あんなのでガイジンに通じるのかなぁ」などと思っていたことは記憶しています。 しかし、受験英語に発音は関係なく、単語を憶え、読解さえ出来れば、テストでは困りませんでした。 そんな風にして、特に英語で苦労することも、得をすることも無く、大学まで進学します。

転機は大学時代に訪れました。

元来、目立ちたがり屋で、自己主張の強い私は、日本の学校教育システムに馴染みませんでした。「なんで、みんな同じ服を着せられ、同じように考え、同じような行動を取ることを強いられるんだろう。 もっと自由でいいじゃないか。」と日々思いながら育ちました。 一方で、開放的で自由を重んじ、個性を伸ばすイメージのあるアメリカには、漠然とした憧れがありました。 受験戦争を経て大学に入り、しかし入ってみればバイトとサークルに明け暮れるだけの学生生活に失望した2年生の時、アメリカ留学を決意します。

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【挫折、そして外国人留学生が教えてくれたこと】


ワシントン州の田舎町にある州立大学に留学しました。 1998年の春です。 選んだのは、最も日本人が少なかったからです。 バイトで貯金したお金での自己負担の留学なので、一年分しか費用が出ず、限られた期間で精一杯英語に触れようと思いました。 満を持しての留学、憧れのアメリカ。 でも渡ってみれば、相手の話している英語がさっぱり聞き取れません。 マクドナルドでさえ、メニューの写真を指差して注文するのがやっとでした。 読み書き主体の受験英語は、何の役にも立たず、私の自信はズタズタに引き裂かれました。

聞き取れない、聞き直しても通じない、アメリカ人と対峙するのが怖くなる・・・そんな悪循環が続いていた頃、あることに気付き始めます。 きっかけは、他の国からの留学生が与えてくれました。 当時私はアメリカ人と話すとき、完璧な発音をしないと通じないのではないか、と萎縮し緊張していました。 それが、アジアや中東からのクラスメートたちと話すときは、比較的リラックスして話せるのです。 それは、お互い外国語である英語という手段を通じて理解し合おう、という気持ちがベースにあるからだと思いました。 少々発音が悪くても、相手は聞き取ろうと努力してくれるし、こちらも一生懸命伝えようと努力します。 それに気付いてから、私の英語への考え方は一変します。学生時代、英語は学ぶ科目の一つ、すなわち学問でした。 なので、よく勉強できれば優秀だし、できなければ無能、と考えがちでした。 その意識から、アメリカ人と対峙して、彼らの半分も英語を話せないとき、自分は彼らよりも劣っているように、思ってしまいます。 しかし、英語はコミュニケーションの道具に過ぎない、と気付いてからは、むしろ「他の言葉を話せないアメリカ人のために、私達があなたの言葉を使ってコミュニケーションをしている」というくらい大きな気持ちで構えるようになりました。 それ以来、アメリカ人に向き合っても、臆することなく、堂々としていられるようになりました。 それから、私の会話力は徐々に伸びて行ったと思います。

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【悔しさをバネに】


留学中にもう一つの出会いがありました。それは映画です。
人口7千人の田舎町には、娯楽らしい娯楽はありませんでしたが、映画館は二つありました。 新作映画は、数ヶ月遅れてやってきましたが、その分二本立てでなんと当時1ドル50セントで見られました。 英語の聞き取りの練習のためにも、毎週のように映画館に通いました。 でも、最初は内容の半分も分からず、フラストレーションは溜まる一方でした。 面白いのはアクションシーンだけで、会話主体のシーンになるとついていけなくなり、終わった後も疑問ばかりが残りました。 コメディーでは、周りのアメリカ人が笑う中、ひとり笑うタイミングを逃し悔しい思いもしました。 それでも、ハリウッド映画の持つスケール感や映像美に見せられ、毎週通い続けました。 留学が終わるまでには、きっとアメリカ人と同じタイミングで笑えるようになってやる、という密かな目標を持ちながら。 結局、その年に公開されたハリウッド映画は全て見尽くした、と言ってもいいくらいです。 一年間の留学が終わった時には、おそらく7割くらいは映画の内容は理解できるようになっていたと思います。

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【日本を再発見】


日常生活でも、会話の7-8割が分かるようになってくると、アメリカ人のモノの考え方や価値観も段々分かってきました。 それは、留学前に漠然と抱いていた「自由で開放的なアメリカ」という単純なものではなく、個人主義、利己主義などの側面も伴い、日本人にとって全てが肯定的とも思えないものでした。 そんな風に英語が分かるにつれて、アメリカという国そのものへの理解も深まって行きました。 逆に、「閉鎖的で画一的」と否定的に感じていた日本社会にも、外から見てみると協調性や思いやり、という素晴らしい側面があることにも気付かされました。 そうして、私の一年間のアメリカ留学は終わりました。

帰国後は、神戸で残りの大学生活二年間を過ごします。 バイトは再開しましたが、今度は英会話学校で日本人講師として働きました。 そこでは、日本人講師はビギナーを担当し、レベルが上がると外国人講師に引き継ぎます。 このバイトを選んだのは、より多くの人に自分と同じように、英語で会話することの面白さを知って欲しい、という気持ちと、一緒に働く外国人講師たちと付き合うことで、自分の英語力をもっと伸ばしたい、という気持ちがありました。 一年間の留学だけでは、英会話能力は十分ではありません。 結果的に、その後の二年間、外国人講師と日々英語で過ごす中で、私の英会話能力は、さらにブラッシュアップされた、と思います。

それから私は、大学を卒業しNHKに就職しました。 留学中に見たハリウッド映画の影響が大きかったと思います。 映像と音声で人に情報と感動を伝える媒体に魅せられ、関係する仕事に就きたいと思っていました。 しかし、入社時からいつかまたアメリカに戻りたい、という野望は密かに持ち続けていました。 NHKで4年間ディレクターを勤めた後、転勤をきっかけに辞職し、単身アメリカに渡りました。 1996年のことです。

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【アメリカで二度目の挑戦】


アメリカに再び渡ってからは、それまで温存してきた英語力を呼び覚まし、フリーランスとしてTVディレクター/コーディネーターの職に就いています。 アメリカでこの仕事を再開して14年になりますが、今も勉強の毎日です。 ディレクターとしての仕事内容は、基本的に日本でしていたことと変わらないのですが、日本人とは気質の違うアメリカ人を相手にすると、取材のアプローチの仕方も大きく変わってきます。 取材交渉では、日本のように情に訴えるやり方は通用しないので、取材に応えてもらう意義やメリットを合理的に説明する力量が問われます。 インタビューで、心の奥底にある不安や苦悩を引きだそうとしても、常に前向きなアメリカ人はポジティブなことしか言わず、困る場面も多いです。 逆に、日本人に対してはちょっと聞き難いようなデリケートな質問も、ストレートにズバリと聞いた方がいい答えが返ってくることもあります。また、番組では科学や医療、経済や政治など様々な分野のテーマを扱うので、時に専門的な英語も要求されます。新しい題材に出会うたび、新しい発見があり、知らなかった英単語や言い回しを覚えるのは当然ですが、まだまだ底知れないアメリカという国への理解も少しずつ深まっています。

取材では、アメリカだけでなく、ヨーロッパやオーストラリアなどへも遠征します。「西洋人=アメリカ人」と思いがちですが、国が違うと実に様々な人間模様や考え方があると、気付かされます。そんな時、留学時代に他国の留学生と初めて心を通わせて話せた、あの感動が蘇ります。英語を介することで、世界中の色んな人と出会い、実に色んな人生に触れる事ができました。
私の人生は、英語によってとても大きな世界に開けた、と感謝しています。

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