自分の可能性を最大限に広げてくれる一つのツールとして

岡田光晴 (Mitsuharu Okada)さん (ハワイ大学大学院社会福祉プログラム博士課程)

東京都生まれ。 高校卒業後、ロサンゼルスのコミュニティカレッジへ。 ニュージャージー州のモントクレア州立大学、コマーシャルレクリエーション学部を卒業し、フロリダのテニスアカデミー、ロサンゼルスの広告代理店、さらに翻訳通訳会社にて勤務。
再度、ロサンゼルスの南カリフォルニア大学大学院国際公共政策学部へ入学。
卒業後、ハワイ州、国立イーストウェストセンター・アジアパシフィックリーダーシップのプログラムに参加。 
ロサンゼルス市・郡の高齢者虐待防止プログラムの教育イベント、各種分野合同のケース対策チームの教育プログラムコーディネータを勤める。 
現在、ハワイ大学大学院社会福祉プログラム博士課程に所属。 
 

~英語との出会い~

僕の父親は、仕事で海外に行くことが多く、その度に、行った街の写真を見せてもらったり、訪れた国の話をよく聞いていました。 そして家にいる時は、映画をよく観ていたので、英語=映画のイメージがありました。 また、9つ上の姉も英語に興味があり、ビートルズなどを聴いていたので、自分も一緒に聞いていた思い出があります。 
幼稚園のころに、姉がマグカップに、自分の名前をローマ字で書いてくれたことがあり、それからアルファベットに親しみがわいてきました。 また、英語の歌のテープを買ってもらい、繰り返し聞いて真似をしてながら歌っていました。 あまり日本語と英語の区別がなかったのでしょう。
はじめてハワイに行った時も、理解こそしていませんでしたが、英語を違和感のある言葉とは感じませんでした。 小さいころから英語が周りに普通にあったため、英語を「勉強」していくことになってもまったく拒絶感がなかったのだと思います。

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~英語の勉強のはじまり~

僕が一番初めに英語を勉強し始めたのは小学校3年生のときです。 もともと興味があったので、自分からやりたいと親にせがみました。 はじめは絵を見ながら単語を覚えていったんですね。 日常生活になじみのある単語をたくさん覚えていきました。 家に帰ると、習った単語のアイテムを見ては英語で言う、という繰り返しをしていました。 そして、わからないものを英語ではなんというんだろうかと考え、毎日が興味の連続でした。 映画を観るときは、簡単なせりふをがんばって聞き取っては、繰り返して言ってみたりしました。

中学に入り、授業としての英語が始まってからも、あまり「学問」として英語を認識していませんでした。 そのため、他の教科は好き嫌いが激しく、成績もいまいちでしたが、英語だけはあまり苦労しませんでした。 いい先生にも恵まれたのだと思います。 音楽好きの先生だったので、授業中にギターを持ってきて一緒に歌を歌うのがとても楽しかったのです。
この先生には、ビートルズ、カーペンターズ、ベット・ミドラーなどの名曲を教えてもらいました。

父親の仕事の影響もあったのでしょう。 「英語が話せれば、世界は広がるのではないか」と必然的に思い込んでいたのかもしれません。 このころは、世界地図を見て世界にはどういう国があって、どういう人たちが住んでいるのか、うきうきしながら調べていたのを覚えています。

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~ロサンゼルスへの憧れ~

いろいろな国へ行っていた父親ですが、その中でもロサンゼルスという場所を気に入っていたようです。 一度、大きなミッキーマウスのぬいぐるみと、ロサンゼルスの写真が載っていたポストカードを買ってきてくれたのを、今でも鮮明に覚えています。 そして、父親に「こんなにたくさんの人種が隣り合わせに住んでいるところはめずらしい。 世界をコンパクトにまとめたようなところだ。 いつも天気もいいし、人々は陽気だし。 一度はロサンゼルスを訪ねなさい。」と言われました。 それ以来、ロサンゼルスへの憧れが沸いてきたのです。

高校は、大学の付属校だったので、エレベータ式に進学することもできました。 当時は「いい大学にいかなければ」という気持ちもあったので、付属高校に進んでいたのですが、僕の進むべき方向を導いてくれた先生がいました。 僕自身、全てにおいて疑問を持つような時期でした。 その時期に、その担任の先生から、毎週エッセーを書くように課題として与えられました。 疑問に思うこと、なぜ疑問に思うのか、どうそれを変えたいのか、どういう影響があるのかと、思ったことを自由に、様々なトピックについて考えさせられました。

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普通、日本の教育では、答えがあるものを解かされ、その答えに正しく導けるように訓練させられることが多いですよね。 しかし、この先生はあえて「答えのないもの」、「矛盾のあること」に対して疑問を持たせてくれて、自分の考えをまとめる練習をさせてくれたのです。 クラスメートの中には、このやり方に不快感があり、授業を嫌がる人も多かったのですが、僕はなんだか自分を出せる居場所を見つけた気がしたんです。 それまでは「普通でいるために」一生懸命だったので、自分は「ひねくれているのだろうか」、「おかしいのだろうか」と悩むこともあったのですが。 
このエッセーは匿名でやるものだったのですが、ある日、先生に言われたんです。 「お前のエッセーは特徴があるから、すぐどれだか分かる」って。 その時、個性を持つことは悪くないし、普通でいなくてもいいのではないかって思わせてくれました。 特にこの学校はバンカラ気質で保守的なところもあるので、先生にアメリカの大学進学を考えてみたらどうだと言われたのです。

それまでも留学したいという気持ちは強かったのですが、「保守的」な自分がそれを拒んでいたのでしょう。 「いい高校を出て、大学を出て、そうすればいい会社に入れて、幸せが待っている」という方程式を勝手に思い込んでいたのでしょうね。 人によって、いろいろなスタイルがあるということを押し殺していました。 この先生の言葉が、すぅーっと「自分」になることを後押ししてくれたのだと思っています。

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~いざ、アメリカへ~

単身で、ロサンゼルスに渡った当初から、不安や怖さというもが全くなく、毎日がわくわくして過ごしていました。 単純に若かったんでしょうか。 白人、黒人、ヒスパニック、アジア人など、多くの人種が街中にあふれている。 それを見ているだけで、なんだか自分の存在感を感じれる喜びがありました。 他人からの自分は、「アジア人」、「日本人」と写る。 なんだか、そういう感覚が今までになくて、本当に新鮮でした。 そして、皆、自分という個性を大切にしていて、自分の可能性を最大限に試していける、そんな雰囲気に、渡米して間もなく、「あっ!ここだ!」と感じたのです。

けれども、今まで自分を表現するとか、自分の言いたいことを発言するということに、あまり慣れていなかったのでしょう。 表現したくても、「中身」がなくて戸惑いました。 
自分は日本人の一代表であるため、日本のことをいろいろ聞かれますが、知らない、わからない、はたまた、自分は何なんだろうかと悩んだ時期もこの頃でした。 
日本語でも、英語でも、そうなのですが、言葉というのは伝える手段です。 ただ、「中身」は自分の知識や経験から作り出すしかないのです。 それまではマニュアル的な答え、決まったいい回しなどをただただ詰め込んできました。 しかし、「自分はどうなんだ」と問われた時に、周りを見回して、「正しい答え」を探している自分に気付いたのです。 突然、失敗する怖さ、先行きの見えない将来に不安を覚えはじめました。

とにかく、いろいろなことを片っ端からやるしかありませんでした。「自分作り」のスタートですね。 日本の学校はひとつの部活に入ると、ほかの部活に入れないことが多いのですが、アメリカの学校というのは、幅広く経験を増やすように、学期ごとに違うスポーツや活動が提供されていて、複数の活動ができるようになっています。 オバマ大統領も、高校時代はバスケットボールとポエムのクラブに所属していたそうです。

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僕は元来、シャイな性格ではないので、友達もたくさん出来ました。 下手な英語で話しては、間違いを指摘されて、笑い、直してまた話す、の繰り返しでした。 日本語が母国語なのだから、来たばかりの頃は英語はできなくても当然だと思っていました。 間違えてこそ、何かを学べると思っていましたし、通じなくてもへこたれることはなかったです。 勉強は相変わらず嫌いで、本を読むのも苦手だったので、クラスではすごく苦労しました。 しかし、友達も増え、映画もたくさん観ていたので、英会話は上達していきました。 必死で友達の表現を覚えて、映画を繰り返し見ては、そのせりふを使ってみたりしていました。 毎日の生活が楽しいと思えていたので、伸びるのも早かったのだと思います。

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~アクティブにいること~

自分自身をあまり理解できてなかったので、いろいろな経験を通して「自分」を分かろうと、そういう環境にわざと追い込みました。 テニスを習い始め、イタリア語を勉強し、多くのイベントに参加するよう心がけました。 こういうことをしていると友達も作りやすいんです。 そして、日本史、政治、宗教、文化などについて聞かれることが多かったので、答えれるように、本を読んで勉強しました。 また、暇とお金さえあれば、旅行に出かけました。 アメリカは大陸ですので、車さえあれば運転していろいろな場所へ行くことができます。 ラスベガス、サンフランシスコ、メキシコ、カナダなどに行きました。 96年にはアトランタオリンピックにも、行きはバスで4日、帰りは電車で4日かけて行ってきました。 様々なことに取り組み、挑戦して、自分に合うものと合わないもの、自分の強いところと弱いところを見極めていたように思います。

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~東海岸へ~

ロサンゼルスでは始め、コミュニティカレッジに通っていたのですが、3年目に4年制の大学に編入する際、ロサンゼルス以外の街へ行こうと思いました。 ロサンゼルスはとても気に入った街だったのですが、他の街を見ることで、もっと好きになるのではないか、また、もしかしたら、もっと自分に合う場所があるのではないかと考え、東海岸の大学進学を検討しました。

結局、ニュージャージー州のモントクレア州立大学に編入することにしたのです。 同時にテニスチームに所属することにしました。 さすがに場所が変われば全く雰囲気が違いましす。 ロサンゼルスでは、いろいろな人種がいるので心地よく、実はあまり「アメリカ」にいる気がしていなかったのです。 しかし、東海岸にくると、レンガ建ての家が多く、また、ニュージャージーは白人が多い地域なので、3年目にして初めて「アメリカ」を感じました。 それと、アクセントが異なるので、そこも始めは少し戸惑いましたが。

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授業にもだいぶ慣れてきた頃、試練がやってきました。 3年時のクラスですが、なんと90分の授業を英語ですべて自分でしなければならなかったのです。 僕が通っていた当時、この大学には外国人生徒がかなり少なかったのです。 しかも、リクリエーション学部は1学年で30人ほど。 外国人は学部内で僕を入れても2人しかいませんでした。 さすがにあせり、教授の部屋に何度も通いました。そんなあせっている僕に対して教授はこう言ったのです。
「人間なんだし、特に君は外国人なんだから、失敗はあたりまえじゃないか。 自分の持っているもの以上を期待してはいけないし、それ以下に自分からしてしまってもいけない。 失敗を繰り返すことが、学ぶということなのだし、君が失敗してくれたら、他の生徒だってそれが学びになる。 そして自分の財産にもなる。 大切なのは目の前にあることを一生懸命やって、次へつなげることだ。」と。
自分がアメリカに来た当初の気持ちを思い出させてくれました。 ちなみに、そのクラスはなんとかパスしました…

この教授の言葉は、それからも何度も思い出すことになりました。 次の夏にディズニーワールドで働く機会があったのですが、さすがに、プロフェッショナルな場所であるため、英語がまだ不自由な自分には不相応な場所じゃないかと、かなりのプレッシャーがありました。 しかし、始めないことには何も生まれないのです。 隣にいたキャストメンバーがどのような会話をしているのか、仕事を始めたばかりの頃は毎日聞き耳を立てていました。 結局、この仕事でフロリダには3ヶ月いたのですが、この時に本当に英語が伸びたんだなと実感したのです。

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大学卒業後は、再度フロリダに行き、テニスアカデミーでマネージメントのお手伝いをしながら、テニスコーチをしていました。 世界中から集まる将来有望なジュニアプレーヤーたちの世話をすることがあったのですが、200人位を前に指示を出したり、平気でできたんですね。 それまでの失敗がなければ、あのように堂々と英語で仕事をこなす自分はいなかったかもしれません。

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~日本への帰国~

1年ほど、大学院進学準備のために、日本へ帰国しました。 アメリカに10年ほど住んでからの帰国でしたので、毎日が「外国人になったような」新鮮さがありました。 日本にいる間は、英語講師をしていたので、英語を学びたい生徒さんたちと沢山話をする機会がありました。 生徒さんたちによく伝えていたのは、「自分を知ること」、「自分に自信を持つこと」、「反省はするけど、後悔はしないこと」、「失敗を恐れないこと」が大切だということです。 英語習得に直接関係するアドバイスではないかとも思ったのですが、どうしても伝えたかったことなのです。

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英語というのは所詮は言語です。 先生方には怒られてしまうかもしれませんが、文法やルールなんかも人が作り出したものです。 テストとなれば「間違い」となるけれども、本来の目的は意思疎通を図るためのものですから、全く堅苦しくなる必要はないんです。 身振り手振りのジェスチャーとか、単語だけを絵に描いて見せたりとか、会話とは本来、いろいろな方法があると思うのです。 伝えるために何が大切かは、そこに「心がこもっている」かどうかなのです。 心をこめるためには、自分が伝えたいことを理解していなければならないし、それを一生懸命伝える態度が大切になると思うのです。

もちろん、単語を知っている、文法を知っているということは、正確性を保つためには必要なことなのですが、同時に自分の質を向上するために努力をすると、もっといろいろなことへと派生して広がっていくと思うのです。 どこかのコマーシャルではないのですが、「可能性のないものはない」のですから、[幸せの方程式]というものは自分で作って自分で使っていくものだと思っています。

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~可能性への切符~

既に日本を離れて15年が経ちます。 しかし、「自分探し」はまだ続いています。
2001年に、アメリカ・ニューヨークで起きた「911」事件をきっかけに、何が世の中の人々の不協和音を引き起こしているのかを考えるようになりました。 事件現場が大学のそばでしたので、被害にあったり、事件を目撃した友人が数多くいて、大きな影響を与えられました。 自分は、世界の一個人として何かできることはないだろうかと考え、ロサンゼルスの南カリフォルニア大学大学院で国際公共政策学を学ぶことにしました。 答えのない物が、様々な形で複雑にかかわりあっていることが、世の中には多くあります。 時にはどちらかが正しい、間違っていると判断ができません。ただ結果として惨事となり、ネガティブな要因だけを残す場合もあります。 難しいことではありますが、それでも語り合うこと、会話を続けることのパワーは存在すると思うのです。 それが見解の違いを理解することであったり、お互いの立場を尊敬することにつながることもあると思っています。それが教育という形になりえると思うのです。

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先日、パキスタン人の友人の結婚式に招待されて、パキスタンに行ってきました。 メディアでは連日、醜い戦いの様相が報道されています。 実際に危険な場所はたくさんあるようですが、訪れた街は歴史のあるとてもきれいな場所でした。 そして、そこの人々は本当に温厚で、人なつっこい人たちばかりでした。 普通の旅行であれば、このエリアの状況を考慮すれば、あまり行くべき国ではないと思います。 ただ結婚式に招待してもらって、自分も行きたいと思えたのは、心から信頼できる友人だったからこそだと思っています。 それは、英語という言語能力のみの域を超えて、伝わり合う、分かり合う友情があるからこそなのです。 
実際に英語ができると、世界の多くの場所で通じる言語であるため、旅行も楽になると思います。 勿論、通訳を雇えば問題ないですし、便利なのですが、子供のころにやった「伝言ゲーム」と一緒で、言葉が伝わるときには、何かメッセージが抜けてしまうことがあると思うのです。 そういう面からも言語を習得しておくことは、あらゆる可能性への切符であると思っています。 そして、その広がる可能性、知識の吸収だけでなく、自分自身の新たな発見にもつながるはずです。

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現在、ハワイ大学大学院社会福祉プログラムの博士課程にいるのですが、「声」の大切さを伝えていけたらと考えています。 研究では、明治維新以前より日本政府によって、長年、その「声」を奪われてきたとされるアイヌの方々のステータス、アイデンティティ、社会福祉制度の向上の手伝いをしたいと研究を進めています。 そして、アイヌ文化の維持と発展、そして日本という国が他民族国家であり、複数の文化が存在しているというすばらしさを広めていきたいのです。 ここにくるまでには、かなりの時間がかかって、遠回りした感じもあるのですが、それでも今までの一つ一つの経験が生かされてここにいるのだと強く思っています。 
子供のころの「英語への興味」から始まり、「英語を学び」、「海外を知り」、「日本を知り」、「自分を知り」、そして、「自分の可能性を今後どう広げていくか」について考えられること自体、本当に幸せなことだと思っています。

皆さんも、自分の可能性を最大限に広げてくれる一つのツールとして、是非、「英語」、またはその他の言語を習得し、納得いく人生を送ってください。 応援しています。

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