私にとって「英語」が話せることが可能にしたこと

しづこさん (産婦人科医)

栃木県佐野市に生まれる。 8歳のときに両親の仕事関係で渡米。
中学に帰国するも、日本に馴染めず、高校2年より再び留学。 
米国の大学へ入学し、苦学生だったことから、絵を売ったり、似顔絵を書いたりして生活していた。
4年制大学(Reed College)へ編入し、生物学と美学の学士を習得。
11年の米国生活にピリオドを打ち、日本に帰国して、医学部へ学士編入。 
現在は、産婦人科医として活躍中。

~英語と私~

私はアメリカに11年間、イギリスに半年間住んでいました。 最初に渡米したときは8歳の頃から3年間です。日本ではいつも引っ込み思案、「雲の上ののんちゃん」にでてくるような子で、授業も上の空、外ばかりを眺めながら一人絵を描くのが好きな少女でした。 
両親の仕事の関係で嫌々ながらの渡米。 全く英語は話せませんでした。 
アメリカでは近くに日本人学校が無かったので、普通の公立小学校に入学しました。 
相変わらず一言も英語を話せませんでしたが、いつものように一人で絵を画いていたら、次第に周りの人が集ってきているのに気づきました。そのうちの一人が「You are such a great artist!」と褒めてくれ、私は戸惑いながらも、「Thank you」と答えた記憶があります。 その後は絵を画くたびに褒められることが、嬉しくて嬉しくて。

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次第に様々な学校のアクティビティーにも参加し、自分のクリエイティビティーを積極的にアピールしながら友達をドンドン増やしていきました。 日本では「あなたはデッサンは上手だけど、絵の具の使い方が良くない」と否定的でしたが、アメリカでは「あなたのデッサンは素敵!もっとチャレンジして欲しい!」と常に肯定的で、私は初めて自分が受け入れられた喜びを感じることができました。 その後、私は引っ込み思案から卒業し、とても積極的で活発な女の子になりました。 言葉も豊かになると同時に、表情もドンドン豊かになっていきました。 こういう風に成長していけたのも、「英語」でコミュニケーションできたお陰だと思っています。

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ところが、中学1年生で日本に帰国した時はほとんど日本語が話せずに困りました。 日本語で話しても英語からの直訳なので、言葉が率直に伝わってしまったり、あいまいな表現ができなかったりして、周囲と溶け込むことが難しかったです。 何より、中学教育で「英語」はコミュニケーションの手段ではなく、受験や出世の道具として考えられていることにとても抵抗を感じていました。 私にとっての英語は、自分を相手に表現する手段であり、テストが出来るためのものでも、周囲を圧倒させるためのものでもないからです。 でも、「英語ができる」と評価された私は、周囲からドンドン孤立してゆき、進学校にも進みましたが、結局馴染めずに、アメリカに「戻る」決心をしました。

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高校2年生から、今度は一人で留学しました。 小学生の時とは違い、周囲は「日本人」としての私を期待しました。 つまり、私は「日本の代名詞」なんだと感じました。 あんなに、ひどい疎外感を味わった国なのに、不思議と「日本のよさ」を伝えたいと思うようになりました。 夏休みに帰国したときには、お茶、お花、着付け、俳句、古典など日本の文化の良さを伝えられる手段を探し、出来る限り学びました。 私はこんな素晴らしい文化に生まれたんだと誇りに思えたのも、アメリカに留学したからだと思います。 日本の文化の中で、もっとも伝えたかったのが「無常」だったと思います。 大学もアメリカで卒業しましたが、卒論はこの「無常」についてでした。 アメリカの教授から高く評価されたときは、本当に嬉しかったことを覚えています。

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日本に帰国し、老年医学に興味があった私は日本の医大に学士入学しました。 テストは英語だったので、問題なく合格し、入学後も様々な教授に英語の能力を評価され、論文のお手伝いをさせていただいたり、在学中はロンドンにも交換留学に行かせてもらいました。 ロンドンの留学中には生命倫理の授業に関心を持ち、やはり文化の違いが倫理観の違いとしてあることを確信し、他の医大生と議論しました。 日本に直接、欧米の倫理観を当てはめるのは不適切であり、日本独自の倫理観があるに違いないと思いました。 現在も大学院で医療倫理に携わっているのも、このときの議論がきっかけです。 

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「英語」のお陰で、学会に行っても様々な考えを持つ人と、問題なく議論できます。 相手が「この人は英語が話せる人」と判断すると、より深く議論出来る気がします。私にとって「英語」が話せることが可能にしたこと、を振り返ってみると、それは常に、「日本人としての私」を世界レベルで認識できるようになったことだと思います。 世界各国で、様々な考えや、人種に出会えたことはやはり、「英語」がツールとして上手に使えたからだと思います。

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~最近~

最近は博士論文をJournalに提出するように毎日がんばって書いています。 日本と欧米との違いを明らかにできたらと思っています。 
今書いている論文は、実は日本文化の素晴らしさを海外に伝えるというものです。 テーマは「勿体無い」です。 外国の人にも「ありがたい」と感じる日本人の素敵な気持ちをわかっていただければいいなと思っています。 そういう意味で私は自分のアイデンティティー・クライシスをOvercome(克服)しようとしているのかもしれません。 不思議なものです。 英語が話せるから故のクライシスを英語の表現力でOvercome(克服)する。 とっても、充実感のある作業です。

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~アイデンティティー・クライシス~

私は、あまりにも小さいころから海外に身を置いて英語を学習することには反対です。 枠の中の自由というものを大事にしたほうが、枠がない困惑よりは良いと思うからです。 言葉というのはひとつでもいいので、しっかり話せることが大事だと思います。 二つの言語が同時に同じくらいできるということにより、いわゆるアイデンティティークライシスがおきやすいからです。
英語を身につける上では、日本で幼少期を過ごし、高校生あたりで留学することが理想だと思います。 ネイティブのように話せることがなぜ良いのか、私にはまだ良くわからないところさえあります。 

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中学で日本に帰国したときは、日本語がほとんど話せませんでした。 しかし、当時は中学の英語教師よりも英語が堪能だったと思います。 英語の教師にとっては、それが、ねたみの的であり、何かにつけて、私を批判したり、テストでも理不尽な減点をよくされたものです。 教科書どおりに覚えたり、書いたりしないと減点になりました。 ちなみに、私が中学3年間で英語で満点をとれたのは最初の中間テストだけです。
そういう態度で接せられながらも、発音がネイティブに近かった私は、教師の見栄や出世のために、スピーチコンテストの県大会出場を毎年させられました。 なんだか、実験動物のような疎外感を常に感じていました。 このスピーチに出場させられることから、クラスの皆からは「アメリカ人」などと言われ、寂しい中学時代の思い出しか残っていません。
中学時代の成績は、努力でいつも上位にはいましたが、小学校の多感な時期をアメリカで過ごしたせいか、日本語の微妙なニュアンスがわからず、国語や日本史はあまりできませんでした。 そのため、高校では進学校に合格しましたが、結局中退し、アメリカに留学することになりました。

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留学をして、アメリカに戻ると、今度は「日本人」として扱われることの責任感を感じました。 あんなにひどい目にあった国なのに、アメリ人にポジティブに理解してもらおうと、どうしたらよいのか常に考えていました。 日本文化も少しずつ学んでいきました。 段々と自分の国の良さにも目を向けられるようになっていきました。 アメリカに留学していなかったら、きっと日本の良さに気づくことなく、今のように日本を好きだと思えなかったかもしれません。
帰国して、私は私立の医学部に行くことになりました。 在学中は翻訳・構成・同時通訳や英会話学校で学費を稼ぎ、教授や講師にも大変重宝され、数え切れないほどの論文構成を行ってきました。 その中で気がついたことですが、日本での研究は、ほとんど外国でやってあることの追加的なものが多いということです。 また、アメリカでは考えられないような、プレイジャリズム(盗作・盗用)のオンパレードで、唖然としました。 このような現実に直面して気づいたことがあります。 英語という言語は個性を育むことを促しているのかもしれないと。なぜなら、英語という言語は「あいまい」の対極にあるからです。

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私は日本に帰国して10年以上たちますが、未だに、「しづこさんは外国人だから」と親しい友達にさえ言われます。 これは、二つの言語を話す人の宿命なのかもしれません。 しかし、いつの日か、「しづこさんの個性だから」と言って、受け入れてもらえる日を夢見ています。

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