出会いによって自分自身を成長させていきたいと思っています

Yuko N.さん (レコード会社)

広島県広島市生まれ、東広島市育ち。
7歳の時、父親の仕事の都合で渡米し、4年間、現地の小学校に通い、小学5年生で日本へ帰国。
高校受験を控えた中3の夏に、留学という形で再び単独渡米。 合計11年のアメリカ生活を経て、大学卒業を期に日本へ帰国し、現在レコード会社にて国際的に活躍中。

田舎で育った一人っ子ということもあり、基本的に一人で遊ぶことの多かった私は、地元の小学校への入学後もなかなか周りと打ち解けることができずにいました。 食べるのが人一倍遅かったので、お昼休みも返上して一人教室で必死に食べていたのを覚えています。 昼休みに友達と外で遊んだ記憶はほとんどないほどです(笑)。
そのようなマイペースな日々を過ごしていたある日、母親から突然、「アメリカに行くことになった」と聞かされました。 当時7歳だった私は、状況にピンとこず、「へ~」という精一杯の感想を無表情に答えた気がします。
皮肉なもので、出発までの数ヶ月で友達も徐々に増え、登校最終日には私に内緒で企画してくれていたクラスのお別れ会で、みんなが歌を歌ってくれて、プレゼントとして1本のテープをもらいました。 家に戻って早速テープを聴いてみると、クラスメイト一人一人からコメントが入っていて、涙が止まらなかったのを今でも覚えています。 このとき、初めて友達のありがたみを実感しました。

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広島の田舎しか知らない7歳の少女が、突然、広すぎる空と青すぎる海に包まれた南カリフォルニアに上陸しました。 言葉も何もかもわからない異国の地に慣れるのは、簡単なことではありませんでした。 最初の半年間、ESL(英語を母国語としない人に英語を教える)の学校へ通っていました。 そこには様々な国から来た子供たちが、英語を学ぶことを目的に勉強していました。 最初の頃は毎日時計ばかり眺めていて、とにかく、早く日本語の話せる家に帰りたいと泣いてばかりいました。 しかし、そこは自分と同じ境遇の子達が集まる場所だったので、自然と友達もでき、最初は身振り手振りだったコミュニケーションも、言葉だけで気持ちが通じ合えるほどになっていきました。
2年生になると同時に現地校へ通い始めました。 英語は会話ができる程度には上達していたものの、やはりまだまだ不安でいっぱいでした。 英語を第二外国語としているのは自分だけ。 そう思うと逃げ出したくもなりましたが、「もう前に進むしかない」と小さいながらに決心しました。 
初日の席順は名前のアルファベット順でした。 苗字が「N」から始まる私は、「P」から始まる子の隣に座りました。 この子との出会いが私の人生を大きく変えることとなったのです。

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【ステイシーとの出会い】

私の隣に座ることになったのはステイシーという子でした。 私たちは急激に仲良くなりました。 ステイシーはアメリカ人にしては内気な子で、アメリカ生活の半年で少し強くなった私としては、非常に心地よい感じでした。 私たちは、学校でも毎日一緒、放課後もどちらかの家で遊ぶ日々を送っていました。 私の英語が急激に上達したのは彼女のおかげです。 週末は日本語学校へ通い、そこでは日本人、平日の現地校ではすっかりアメリカ人になっていました。 きっとこの頃は、英語で夢を見ることも普通にあったと思います。 しかし、4年生になったある日、日本へ戻ることが決まりました。

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【カルチャーショック】

4年間のアメリカ生活を経て、内気な少女は、すっかり自分の意見をはっきり言える活発な女の子へと成長していました。 
渡米前に通っていた学校とは別の学校へ編入することになりました。 「帰国子女の転校生」という看板を背負い、休み時間には「英語をしゃべって!」、「アメリカってどんなとこ?」と質問攻撃。 それに自信満々に答えていた私をあたたかく受け入れてくれる子ばかりではありませんでした。 この学校で過ごした2年間は、私にとって楽しい思い出と同じくらい辛い思い出もあり、この経験が今の私を形成した、と言っても過言ではないと思っています。
自分の意見をはっきり言う事が必ずしも正しいことではないのだ、と学びました。
中学へ進学した私は英語が話せるということを自然と隠すようになっていました。

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【再びアメリカへ】

中学3年生の、周りが受験モードに突入していた頃、私の人生を大きく変える出来事がありました。 小学生の頃仲良くしていたステイシーとは帰国後も文通し、夏休みにはお互いの家に遊びに行ったり、遠距離ながら友情の絆を育んできていました。 そんなある日、ステイシーのお母さんから一つの提案がありました。
「ステイシーと一緒に高校に通わない?」
両親に背中を押されたこともあり、私は留学という形で再びカリフォルニアへ行くことを決意しました。

そして、現地の高校へ4年間通い、大学へ進学しました。

高校の4年間で、「アメリカから見る日本」に少し誤解があるということを感じました。 例えば、日本人は今でも日常的に着物を着ているとか。 
私は同じ歴史上の事実を見たとき、日本で学ぶ事実とアメリカで学ぶ事実に違いはあるのかということに非常に興味を持ち、あえて日本文学や日本史のクラスを受講しました。
日本とアメリカで人生の半分ずつを過ごした私だから伝えられることを、プレゼンや論文などで精一杯表現しました。
合計11年間、アメリカで過ごし、22歳の時に卒業。 ちょうど人生の半分だな、と思ったとき、そろそろ自分のルーツである日本へ戻ろうと決意しました。

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【帰国子女の社会人】

「英語が話せれば何にでもなれる!」と少々勘違いしていた私は、自信満々で就職活動を開始。 しかし、現実はそんなに甘いものではありませんでした。 
「帰国子女」=「協調性がない」「自己主張が強い」など、悪いイメージばかりでした。

地道な就職活動を経て、何度も挫折しそうになりながら、やっと小さな輸入代理店に就職することができました。 そこではメール、契約書などの翻訳からプレゼンでの通訳まで、いろいろやらせてもらいました。 日本語がおかしいと、何度も注意されながら、一般常識や社会人としてのマナーを教わりました。 そこでの経験を経て、今はレコード会社で海外関連の部署に所属しています。
年に3、4回の海外出張では、海外の取引先との商談、日々の業務では、契約書の締結やイベントのコーディネーション等、全て英語で行っています。

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日本の商品を海外へ送り出すこの仕事に、とてもやりがいを感じ、英語という国際言語を使って、世界各国の人たちと交流できることを誇りに思っています。 出張先で知り合い、交流を深めた人たちと友達になり、昨年冬、彼女らを訪ねて一人でタイへ行きました。 学生の頃とは違い、社会人になってから友達を作るのは少し難しいものです。 そんな中、国境を越えて友達を作ることができる。 これは本当に素晴らしいことだと思っています。
英語を話せるということで、確かにつらい経験をしたこともありますが、それもまた、今の自分を形成した良い経験だと思っています。 その後、日本では「英語」という強みを、アメリカでは「日本人である」という誇りを持って生活できたことを本当によかったと思っています。 
その生活が、私の視野を自然と広げ、様々な分野で活躍する人たちに興味を持ち、今は幅広い交友関係を築くことができています。 内気な少女だった私が、「1年365日では足りない!」と悩むほど、周りにはたくさんの素敵な仲間がいます。
そして現在、自分の最大の強みである「英語」と「海外経験」を生かすことのできる仕事に就けたことを幸せに思っています。
これからも日本とアメリカだけでなく、世界のさまざまな国の人たちと出会い、その出会いによって自分自身を成長させていきたいと思っています。

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